Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第56話 若き伯爵の抒情詩 -4-




「そうだ、お腹空いていないですか? 今日は凄くいい野菜が手に入ったんです。オレが育ててきた野菜ですよ」

ヘイムダルは父親の親友だった男の農園で働いている。
植物を育てることは昔から誰よりも得意だったのだ。人と違って植物は裏切らず、彼に悪意を決して向けてこない。
家を囲む林の中にはヘイムダルが育ててきた色々な種類の花が植えられている。勿論町の人々は誰一人知らないが。


「あんた高熱が出て五日間も寝込んでいたんですよ。少しは栄養があるものを食べなくちゃ元気になりませんよ?」

先程まで背中を丸めながら泣いていた男の姿はどこにもない。彼はこんな明るい笑顔を浮かべることができるのだ。
ヘイムダルは知らなかったが、数日飲まず食わずだとしても人間と食生活の異なる悪魔族には大した問題ではない。
真っ直ぐに目を見てもらえたことが相当嬉しかったのだろうか。ヘイムダルはベッドの側から離れようとはしない。

まるで人が変わったようだ、と。クウォーツはちらりと彼を横目で一瞥する。……目が合った。
慌てて視線を逸らそうとしたヘイムダルだったが、どうにか踏み止まる。長年続いた癖は直すのが難しいだろう。
それでも昔からずっと他人と目を合わせることを恐れていた彼にとって、一歩大きく前に踏み出した瞬間であった。

だが……確かに会話をする時は相手の目を見て話せとは言ったが、そこまでじろじろと見つめろとは言っていない。
目が合ったままヘイムダルはいつまでも視線を外そうとはしなかった。


「?」
「いえ、その……折角そんなに綺麗な顔してるのに、暗い顔ばかりしていたら勿体無いなって思って。すみません」
「私は暗い顔をしているのか」
「今でもあんたは十分魅力がありますけど、笑顔はもっと素敵だろうな。でも笑えるような状況じゃないですよね」

悪魔ハンターに追われ、戦闘の要である左足は暫く使い物にならない。
命の危険が迫っているかもしれない状況で笑えるわけがない。そもそも彼に笑顔を求めること自体が難しい問題だ。
ヘイムダルに返事をすることもなくクウォーツはベッドに横になると背を向けた。これ以上会話をする義理もない。


「少しだけ待っていて下さいね、力が付くようなものを作ってきますから。そうだ、好き嫌いは……ないですか?」


返事がなくとも気にする素振りを見せずに、ヘイムダルは忙しくばたばたと足音を立てながら部屋から出て行った。
漸く訪れた静けさ。それでもクウォーツは閉じられた扉に背を向けたまま寝転んでいた。
まさかあの夜から五日間も寝込んでいたとは思わなかった。身体のあちこちが重く感じるのはそのためだったのか。

改めて白銀の威力を思い知った。知識はあったが、これほど悪魔族にダメージを与えるとまでは思わなかったのだ。
悪魔ハンターに追われるのはこれで二度目だと記憶しているが、白銀の武器を使用されたのは今回が初めてだった。
矢に射抜かれた傷など、本来悪魔族の回復力ならば二週間もあれば完治する。だが今回は……早くて一ヵ月だろう。

左膝から下が毒々しい青紫色に変色している。あのまま矢を二、三本も受けていたら命が危うかったかもしれない。
神に祝福された金属……呪われたものを打ち砕く白銀。矢の一本程度なら、まだ祝福された聖なる力に抵抗できる。
勝手に悪魔族を『呪われたもの』にするなと、存在するはずのない神とやらに文句の一つも言いたかったが。


ヘイムダル曰く、この家は誰も訪れないのだと。それならば暫くの間ここで身を隠していた方が得策かもしれない。
せめて歩けるようになるまでは外に出るわけにはいかなかった。

しかし、あの執念深そうな悪魔ハンターに見つかってしまった時は? こんな状態では逃げ切るのは難しいだろう。
その後はどうなる。ヘイムダルと名乗った大男は。悪魔族を匿っていた人間の末路は、運が良くて恐らく監獄送り。
最悪の場合は……町人達に集団リンチを受け、クウォーツもろとも殺される可能性も十分に考えられた。

そこまで思考を巡らせて、クウォーツは考えるのを止めた。
感情が抜け落ちているためにその先が何も浮かんでこないのだ。いや。何も感じない、が正しい表現かもしれない。
誰が目の前で殺されても何も感じない。誰かに裏切られても何も感じない。それが運命ならば仕方がないのだろう。


「お口に合うか分かりませんが、野菜のスープができましたよ。あとオレの服ですけど着替えも持ってきました!」

クウォーツが完全に思考を放棄した頃。扉が勢いよく開くと、野太く明るい声が狭い部屋に響き渡る。
出来立ての野菜スープが乗ったトレイと、随分と大きなサイズでよれよれの寝衣を手にしているヘイムダルだった。
必要以上に彼と関わる気がないクウォーツは背を向けたままだ。やがて、背後から落胆したような声が発せられる。

「……スープと着替え、ベッドのサイドテーブルに置いておきますから。冷めないうちに必ず食べて下さいね?」


木のサイドテーブルにトレイを置く音が聞こえた。重い足音が段々と遠ざかっていき、ぱたんと扉が閉じられた。
ヘイムダルが姿を消すとクウォーツは身体を仰向けに戻して目を開ける。テーブル上でスープが湯気を立てており、
色鮮やかな野菜がたっぷりと入ったそれは、高熱が続いていたクウォーツの体調を考慮しながら作ったものだろう。

乱れた青い髪をぐしゃりとかき上げ、ふと左手の薬指に嵌る彼にしては厳ついデザインである指輪に目を留めた。
あれから一年。いや、一年以上の月日が過ぎ去った。指輪を見つめたほんの一瞬だけ、穏やかな表情が横切った。
この瞬間だけクウォーツは『人間』らしかった。皆が言う意思を持たない人形などではなく、年相応の青年だった。

自分のことなど彼らは疾うに忘れているだろうけど。けれど……彼らが幸せでいてくれるなら、それだけでいい。







……どこかの寝室だった。年季を重ねた高価な家具がずらりと並び、洒落た細工の小物が至る場所に飾られている。
敷き詰められた深紅の絨毯。同じく分厚いカーテン。キングサイズのベッド。
ベッドサイドのテーブルには豪奢な燭台が置かれており、風もないのに蝋燭の炎がゆらゆらと軽く揺らめいていた。

完璧な調和の取れた美しい部屋だったが、部屋の持ち主の嗜好は何一つ取り入れていない印象を受ける内装である。
煌びやかで、牢獄じみた部屋。当然だ。この部屋の主は己の意志を持たない、生ける人形のような存在なのだから。
寝室には二つの人影があった。一人は窓枠の側に立つ男。もう一人は、ソファーに埋もれるように腰掛けている男。

窓枠の側で立っていた男は、どこか軽薄な印象を受ける金髪の美丈夫であった。青白い顔色は妖しき夜の住人の証。
金糸のような長い髪を丁寧に背後で結っており、仕立ての良いビロードのコートに流行りのコロンを纏っている。
印象どおりの軽薄な笑みを薄い唇に浮かべたまま、金髪の青年は溜息と共に肩を竦めて見せた。


「君はさぁ、本当に冷たいよねぇ。愛しい恋人が会いに来たってのに無反応ってのは酷いんじゃないのかい?」
「……」
「ユリウスもどうしてこんなお人形にいつまでも執着し続けるのかねぇ? まぁ僕はそんな君の恋人なんだけどさ」
「恋人?」

その声に顔を上げたのはソファーに腰掛けていた青年。その拍子に艶やかな青い髪が揺れ、蝋燭が彼の顔を照らす。
精巧に作られた美しいビスクドール。それが青年の印象だった。男とは思えぬほど滑らかな白い肌に、長いまつげ。
人の顔というものは完璧ではなく、どこか一つでも欠点があるからこそ逆にそれが愛しさや親しみを覚えるものだ。

だが、顔を上げた青年の顔には欠点というものが存在しなかった。生き物としてはどこか欠陥的な美しさである。
神が戯れに作り上げたかの如く、決して幸せになることができない運命と引き換えに与えられたような美貌だった。
だから彼は、幸せにはなれない。……今までも、そしてこれからも。


「貴様は一度でも私を愛したことがあったのか」
「おかしなことを言うねぇ、君らしくない。勿論愛しているに決まっているじゃないか。君の美しい顔と身体をね」
「それは……愛しているとは言わない」

「クウォルツェルト。今夜の君は本当にどうかしているなぁ。僕は君の容姿を心から愛し続けていくつもりだよ?」

突然何を言い出すのやら、と。くつくつと笑い始める金髪の美丈夫。さも愉快だと言わんばかりに肩が震えている。
確かにそんな形の愛情もあるだろう。だが、クウォルツェルトと呼ばれた青年が求めているものとは大きく違った。
一頻り心ゆくまで笑い続けていた金髪の男は窓枠から身を離し、ゆっくりと青年へと歩み寄ってくる。


「悪いけど君は飾りでしかないんだ。悪魔族で最も美しいと評判の君が恋人なら、箔が付くだろ? それだけだよ」
「それ、だけ」
「うーん……何を勘違いしちゃったのか分からないけどさぁ、愛なんて以前にそもそも君に中身なんてないだろう」
「……」
「何も感じない心が空っぽの性具人形を愛せるわけがない。ああ、でも僕らの身体の相性は最高だと思っているよ」


何も感じない人形……?
では、この感情は一体何なのだろう。悔しいのか、それとも悲しいのか。どれに当てはまるのか分からないけれど。
私は生きている。笑うことだって、悩むことだってできるんだ。生きているのだから、きっと、できるはずなのに。

それでも、それでもまだ私を人形だなんていうのか……!?







「大……夫で……」

暗闇の中、遠くからぼんやりと響いてくる声。
身体中に絡み付く悪夢を振り払うようにクウォーツが目を開けると、不安そうな顔でヘイムダルが覗き込んでいた。
汗でびっしょりと全身が濡れている。あれは夢だったのか、とクウォーツは額に張り付いた青い髪を払い除ける。


もしかしたら単なる悪夢ではなく過去の記憶の断片なのだろうか。あの寝室にも金髪の男にも全く覚えがなかった。
薄々と感じてはいたが……あれが過去の記憶なのだとしたら、記憶を失う前も現在と大して変わらないではないか。
意思のない人形どころか、性具人形呼ばわりか。ただ相手の肉欲を満足させるためだけの都合の良い人形である。
しかしこれは否定することのできない現実であり、やはりそうだったのか、という感想でしかない。

失っている記憶が少しずつ『悪夢』という形で戻り始めてきているのかもしれない。
……悪夢。クウォーツは無意識のうちに過去の記憶をそう形容していた。失った記憶が幸せなものとは限らない。
思い出すなと最後の警報が鳴っているのかもしれない。思い出さないでいる方が幸せでいられる記憶かもしれない。


『失ったものを無理に取り戻さなくてもいいよ。あなたには、過去よりも今を見てほしいんだ』


一年前、別れ際にジハードから投げ掛けられた言葉が胸を過ぎる。
確かにそのとおりだと思った。だが、それと同時にいつまでも失ったままではいけない。……そんな、気がした。





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