Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第57話 若き伯爵の抒情詩 -5-
額を伝って流れ落ちる汗を軽く拭うと、クウォーツの目の前に濡れたタオルが差し出された。
無表情でありながら汗を浮かせている姿は異様だが、彼は自分の意志で表情を浮かべることができない人物だった。
クウォーツは暫く黙ったままタオルを見つめ、やがて静かに視線を上げると差し出した相手をぼんやりと眺める。
「あの、本当に大丈夫ですか? ……あんた、ずーっとうなされていたんですよ。オレの声も全く届いていなくて」
タオルをなかなか受け取ってくれないので、ヘイムダルはクウォーツの手を取ると有無を言わさずそれを握らせた。
氷で冷やされたタオルではなかったが、濡れたタオルは熱を持った身体には程よく感じられる。
「高熱は左足の怪我が原因ですよ。傷の周辺が青紫色に変色するなんて、もしかして感染症を起こしているんじゃ」
「……」
「家でできる治療なんて高が知れています。一度大きな町の病院で、お医者様に診てもらった方がいいと思います」
「医者?」
「オレが町まであんたを抱えていきますから。フードを被って髪を隠していれば、誰も悪魔族とは思いませんよ!」
「高熱と皮膚の変色は、神の呪いとやらが原因だ。時間が経てばそのうち沈静化する」
「神の呪い? どうしてあんたが神様に呪われなくちゃならないんですか。神様なんて、本当にいるんですかね?」
困った表情を浮かべながら、こちらをじっと見つめてくるヘイムダル。彼は心からクウォーツを心配しているのだ。
素っ気無い返事にもめげずに部屋から立ち去ろうとはしなかった。分厚い瞼に埋もれた黒い瞳は不安で揺れている。
熱は下がらず傷は青紫色に変色している。そんな様子を目にすれば、彼でなくとも誰だって不安に思うはずだろう。
「もしも本当に神様がいるのだとしたら、そんな恐ろしい呪いなんてかけませんよ。神様は慈悲深い方ですからね」
「慈悲深い?」
「神父様が言ってました。神様はとても慈悲深く、誰に対しても平等に幸運を授けて下さる奇跡のお方なんだって」
「……」
「だからオレは神様を信じていないんです。誰に対しても幸運を授けてくれたら……オレは今頃幸せになってます」
見ず知らずの悪魔族を助けるという優しい心を持っているというのに、ヘイムダルは誰よりもネガティブ思考だ。
『いじけた性格』と雇い主のスミスからも日々言われているとおり、全て容姿が醜い所為だと決め付けているのだ。
だがクウォーツに弱音を吐いたところで、残念ながら彼が優しく慰めてくれるわけがない。
「貴様が幸せになれる方法ならある」
「え?」
「私を教会に突き出せばいい。貴様は凶悪な悪魔族から町を救った英雄として、町人達から受け入れられるはずだ」
「そっ……そんなこと、できるわけがないじゃないですか!」
「何故だ。私を助けても貴様が得るものは何一つない。むしろ教会に売り渡した方が得るものは大きいだろう」
「あんたが噂どおりの凶悪な悪魔族だったら通報していたと思いますよ。でも、あんたはそうじゃないでしょう?」
「だとしても、私を助けた見返りを求められても……何もしてやることができない」
クウォーツの周囲には、彼に見返りを求めてくる者達があまりにも多すぎた。皆下心を隠しもせずに近付いてくる。
そもそも見返りを求めてくる者しか近付いてこないのだ。彼自身もそんな相手の感情を幾度か利用したこともある。
だから彼は今でも分からない。見返りを求めない無償の優しさを。無償の愛情を信じることができないでいた。
「別に……オレはあんたに見返りを求めているわけじゃないですよ」
「?」
「どんなに辛い目に遭おうとも、他人に対する思い遣りだけは忘れてはならないと父から教えられてきたんです」
「……」
「相手に決して優しさの見返りを求めてはならない。いつも笑顔でいれば、必ず幸せが訪れるんだって」
ベッドサイドに置かれていた小さな椅子を引き寄せるとヘイムダルは静かに腰掛ける。
その恐ろしくも醜い容姿からは想像もつかぬほど純朴そうな笑顔を浮かべながら、彼はクウォーツを見つめていた。
言葉の真意を探るようにクウォーツも彼の黒い瞳を見つめ返す。常人ならば耐えられぬような嘘を許さぬ硝子の瞳。
「それにオレは嬉しかったんです。あんたは父さん以外で目を逸らさないでくれた、初めての人だったから」
「……」
「あんた、先程言ってくれたじゃないですか。相手の目を見て話せって。……それが、本当に嬉しかったんですよ」
「それだけで」
「え?」
「たったそれだけのことで私を助けるのか」
理解できない。クウォーツにとって、単なる気まぐれで発した言葉だった。勿論そこに深い意味など全くない。
そんな些細な言葉のために、見返りを求めず命の危険を冒してまで悪魔族を匿うというのか。愚かにもほどがある。
むしろ気まぐれの言葉に縋るなと言いたい。縋られたとしても、クウォーツは何をする気もなかった。
「嬉しいという意味が分からない。私は当然のことを言っただけ……」
「だから、オレにとっては当然じゃないんだよ!!」
クウォーツの言葉に重ねるように、突然部屋に響き渡るヘイムダルの怒鳴り声。
「あんたは確かに人の容姿を気にしないんだろう。自分がそれだけ美しければ、他人なんざどうでもいいだろうな」
「……そういう、わけでは」
「でも、あんたは今自分がどれほど無神経なことをオレに言っているのか……自覚がありますか……!?」
何もしていないのに。まだ何も伝えていないのに。みんな、まるで恐ろしい化け物を見るような目で避けていく。
拳を握り締め、ヘイムダルはその巨体に似合わず大粒の涙をぼろぼろと溢れさせた。
大の男が子供のように声を上げて泣きじゃくっている。クウォーツの目の前で形振り構わず大声で泣き続けていた。
……涙は一体どういう時に流れるのだろう。
悲しい時だけではなく、嬉しい時にも涙は流れるのだとハイブルグ城の庭師トキオがそんなことを言っていた。
ではこの男は何故泣いているのだろうか。嬉しそうには見えない。では悲しい? それもなんとなく違う気がする。
感情を理解できないクウォーツだったが、自分が発した言葉に傷付いてこの男が泣いていることだけは理解できる。
恐らく無神経なことを言ってしまったのだろう。ティエル達と旅をしていた頃は、よく無神経だと言われていた。
クウォーツは相手の心情を考えず、思ったことを全て口に出してしまうのだ。だがそこに決して偽りの響きはない。
俯いてぐすぐすと鼻を鳴らしているヘイムダルを暫く見つめていたクウォーツは、変わらぬ表情のまま口を開く。
「……私が悪かった。だが正直、何が悪かったのか分からない」
「いいんですよ……もう。オレはあんたに……ただ八つ当たりをしているだけなんです」
「八つ当たり」
「本当は分かっているんです。みんなが嫌っているのは、容姿だけじゃなくて……このいじけた性格なんだって」
「分かっているならいつまでも泣くな。鬱陶しい」
「鬱陶しいだなんて……そんなに酷いこと言わなくてもいいじゃないですか……」
それでもヘイムダルは泣き止まずに嗚咽を続けている。
彼の視界の端にはサイドテーブルに置かれたままになっている、手の付けられていないスープの皿が映っていた。
大分時間が経ってしまっているために、心を込めてヘイムダルが作ったスープは完全に冷めてしまっているようだ。
「どうせオレは鬱陶しい性格ですよ。……顔だって化け物みたいに不細工で、馬鹿みたいに図体でかいし猫背だし」
「……」
「スープ、そのままじゃないですか。確かに料理だって上手ではないですけど、これでも一生懸命に作ったんです」
「だから悪魔族と人間の食生活を一緒にするなと……いや、もういい」
はっきりと食事を拒絶しなかった己が悪い。溜息をついたクウォーツは、テーブルに置かれたスープの皿を取った。
泣き止む様子を見せないヘイムダルの姿を眺めつつ暫く皿の中をかき回していたが、静かにスプーンを口に運ぶ。
やはり、味がよく分からない。味付けが濃いような気もするが、そうでもないのかもしれない。
「ど……どうですか? もしかして、あまり美味しくないですか」
「ああ」
「そんなにはっきりと言わなくてもいいじゃないですか! 出来立てならもう少し美味しかったはずなんですよ?」
「また私が悪いのか」
「明日はもっと美味しく作ります。だから、絶対に出来立てを食べて下さいよ」
「食事は必要ない」
「何を言っているんですか! 今でもそんなに細い身体なんですから。ちゃんと食べないと体力が戻らないですよ」
漸く泣き止んだヘイムダルは己の袖でごしごしと涙を拭う。
クウォーツがほんの一口だけでもスープを口に運んだことが嬉しかったのか、赤く腫れた目で少しだけ微笑んだ。
「あんた、本当は優しい人だ。……少し無神経ですけど、嘘をつかない。そして真っ直ぐにオレを見てくれている」
「……」
「最初は人形みたいになんて無感情な人なんだろうと思った。でも、あんたの言葉は何故かオレの心に響くんだ」
ヘイムダルの言葉に、クウォーツはスプーンを持っていた手を下ろして顔を上げる。
その表情はやはり精巧な蝋人形のようで。何の感情も浮かんでいないアイスブルーの瞳を向け、彼は首を傾げる。
何を伝えようとしているのか理解できなかったためであった。
「それは、あんたが一生懸命生きているからですよ。あんたの言葉だから、オレは……泣いたり笑ったりするんだ」
……一生懸命に生きている。
ぱちりと目を瞬きクウォーツは己の手の平を見つめる。剣を握りすぎて、随分と痛んでしまった白い手の平である。
生きてる。人形なんかじゃない。己に言い聞かせるように、クウォーツは手を握り締めて心の中で何度も繰り返す。
幾度も己に言い聞かせていた言葉であった。だが、誰かが声に出してくれると……こうも心強い言葉だったのか。
半分ほどになったスープの皿を受け取ったヘイムダルは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
これ以上怪我人に負担を掛けてはいけないと悟ったためだ。そもそも怪我は悪化し、熱はまだ下がっていないのだ。
「おやすみなさい……ええと、そういえばオレ……あんたの名前をまだ教えてもらっていなかったんですね」
己の手に落としていた視線を上げ、クウォーツは暫く黙ったままであった。
ここで名を教えて何になる。どうせ怪我さえ治れば二度と会うことのない人物だ。ならば『あんた』で十分である。
そして勿論クウォーツもヘイムダルの名を呼ぶことはないだろう。極力関わらないようにしたい。そう、思ったが。
「……クウォーツ」
「教えてくれないと思いましたよ。でも、あんたにぴったりの綺麗な名前だ。おやすみなさい、クウォーツさん!」
部屋から立ち去ろうとして、ヘイムダルはふと足を止める。振り返り、心底嬉しそうな顔をして彼は笑った。
静かな音を立てて扉が閉じられ、泣いたり笑ったりと忙しないヘイムダルがいなくなると随分と静かな部屋になる。
不意にずきりと左足が痛んだ。
途端に命の危険性が現実味を帯びてくる。悪魔ハンターに見つかれば、この怪我と熱では確実に殺されるだろう。
それでも。……それでも今はただ、何も考えずにクウォーツは深く眠りたかった。
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