Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第58話 若き伯爵の抒情詩 -6-




早朝から忙しない足音がそれほど広くはない家中に鳴り響く。この家は物音が響きやすい作りになっているらしい。
一流の建築士が設計した豪邸ならばともかく、普通の民家に防音性など誰も求めていないのだから当然の話である。

既に目を覚ましていたクウォーツは、上半身を起こし軽く身体を伸ばす。久々に落ち着いて休めたような気がした。
気分も昨日に比べると大分すっきりとしており、どうやら熱は下がっているようだった。
常に周囲を警戒し、如何なる時も隙を見せない彼にしては珍しく熟睡していたようだ。それだけ疲労していたのだ。
睡眠を蔑ろにしてはいけない。日々の疲れが蓄積すれば、如何に回復力の高い悪魔族といえども病で倒れてしまう。


先程から鳴り響いている大きな足音は真っ直ぐにこちらへ向かってきており、勿論あのヘイムダルの足音であろう。
扉の前で足音はぴたりと止み、恐る恐るといった様子で扉が開かれる。隙間から顔を覗かせたのはヘイムダルだ。
見上げるような大男だが、人々の奇異の目から精一杯身を隠そうと猫背になる癖が付いてしまったのだという。

ヘイムダルの顔はまるで潰れた蝋細工のようにひしゃげており、誰もが醜い容姿の男だと答えるだろう。
だが肉に埋もれている彼の瞳は、無力な草食動物を連想させる怯えた色を常に浮かべている。気の弱い性格なのだ。
そんな彼は恐ろしい外見からは到底想像もつかないような小さな声を発した。


「あ……クウォーツさん……」
「?」
「よかった、ちゃんといてくれて。夜のうちに部屋からいなくなっていたらどうしようかと思っていました」

ヘイムダルが姿を現しても顔すら向けなかったクウォーツだったが、その言葉に漸く振り返って首を傾げて見せる。
一体どういうことだ。私が部屋にいては悪いのか。貴様がここで寝ていろと言ったのだろうと。
そこまで思考を巡らせてから、クウォーツは青い瞳を瞬いた。以前誰かに同じようなことを言われた気がしたのだ。


「そういえば、前にも誰かに同じことを言われた。私はそんなにも消え失せてしまいそうに見えるのか」
「まぁ……あんたは見た目だけなら触れたら壊れそうなほど儚く見えますからね。中身は結構女王様気質ですけど」
「は?」
「クウォーツさんって、気まぐれでプライドが高いでしょう? オレはそういう部分も魅力的だと思いますけどね」

「気まぐれなのは否定しない」
「あははは。それは別として、あんたって目を離すと……すぐにいなくなっちゃいそうな気がするんですよね」
「……」
「きっと前の誰かも、そんな不安があって言ったんじゃないですか?」


心底楽しそうに笑うヘイムダル。もう彼はクウォーツから目を逸らそうとはしなかった。
世界でただ一人クウォーツの前だけならば、大きな背中を丸めながら相手の反応を恐れることをしなくなったのだ。
この姿を町の人々の前でも見せることができれば、ヘイムダルに対する意識は徐々に変わっていくのかもしれない。

「人と話すことって、こんなにも楽しくて幸せなことだったんですね。何気ない会話だけど本当に楽しいなって」
「……」

「オレはずっと怖かったんです。他人と話すことが、他人の目を見て話すことが、他人にどう思われているのか。
 けれどオレは今とても幸せなんです。あんたの瞳はオレに対する蔑みも何もなくて、真っ直ぐに見つめてくれる」


それは、別の言い方をすれば……クウォーツの瞳には全く感情が浮かんでいないだけであった。
恐らく他の者が目にすれば『硝子で作られたような無感情な瞳』に見えるだろう。だがヘイムダルは違ったのだ。
たとえ何一つ感情が込められていなくとも、彼はそれだけで幸せだった。自分を見つめてくれるだけで十分だった。

感謝の気持ちを伝えるように、ヘイムダルは投げ出された状態のクウォーツの冷たい手を優しく両手で包み込む。
温かくごつごつとしたヘイムダルの大きな手。節榑立った太い指。長年の畑仕事の所為か、手の平は豆だらけだ。
まるで大切に、慈しむように手を握られ、クウォーツは彼の手を素っ気無く振り払う。慣れ合うつもりは全くない。


「あっ、そうだ。足の傷を見せて下さい。包帯を交換しましょう!」

床の上に置いたままになっている薬箱の存在を思い出し、ヘイムダルは毛布をそっと捲り上げる。
勿論クウォーツは昨夜渡された着替えを一応身に着けてはいるが、明らかに大きすぎてサイズが合っていなかった。
裸よりはマシという程度である。抵抗をするクウォーツの態度を気にも留めず、彼の左足の包帯を巻き取っていく。

青白い血管が透けているほど色素の薄い肌に刻み込まれた矢の傷跡。抉れ、焼け爛れたような傷口が目に入った。
呪われたものを打ち砕くと言われている白銀の威力か。傷口を中心として広範囲に青紫色に肌が変色している。


「どうしてもお医者様に診せるのが嫌だって言うのなら、せめてしっかりと消毒しないと駄目ですよ。
 クウォーツさん。もしかして今までずっとこういう怪我を……病院にも行かずに自力で治していたんですか?」

ペースト状になった緑の薬を優しく傷口に塗り込んでいたヘイムダルだったが、言いにくそうに唇を噛みしめる。

「何故そう思う」
「あの、すみません。別に言うつもりはなかったんですけど、あんたの服を脱がせた時に見てしまったんです」
「何を」
「……クウォーツさん、胸や下腹のところに酷い火傷の痕がありますよね」

その瞬間、クウォーツの身体が強張った。それはほんの些細な変化で、よく見ていなければ気付かない程度だが。
凍り付いた顔付きのまま、彼は錆び付いた人形のように不自然な動作で顔を上げる。


「どうしてあんな怪我を負ったのかなんて聞かないですよ。でも、あれは単なる火傷じゃなくて……まるで誰かに」
「昔のことは忘れた」
「忘れたって……」
「どちらにしても、貴様が気にすることではない」

何事もなかったかのように目を閉じるクウォーツ。
これ以上追及しても、彼はきっと何も話さない。そう悟ったヘイムダルは俯くと、新しい包帯を巻き直してやった。
やはり言わずに黙っていた方が良かったと後悔をしたがもう遅い。それならば何か明るい話題に変えなくては。


「クウォーツさん」
「?」
「オレ、実は今日仕事が休みなんですよ! 今から市場に行こうと思っていて……食べたいものとかありますか?」
「特に何も……」
「駄目ですよ、しっかり食べないと。昨日も言ったじゃないですか」

丁寧に巻いた包帯の端を軽く結ぶ。確かにクウォーツの身体は無駄な肉が一切付いておらず、華奢な印象である。
自分の太く厳つい足を見慣れているヘイムダルにとっては、さぞかし不健康に見えてしまうのだろう。
だが彼は知らない。クウォーツの手足は驚異的な瞬発力を生み出すために、細くとも鋼の筋肉に包まれているのだ。


「さあ、何でもいいですから言って下さい。どんなものでも絶対に美味しく作ってみせますから!」
「必要ないと言っている。悪魔族にとって食事は趣味のようなものだ。食いたい者は食い、食わない者は食わない」
「えっ!? じゃあ食べない悪魔族は何から栄養を取っているんですか?」

「それは……精気を」
「精気? 精気をどうやって食べるんですか? そうだ、オレの精気でよければクウォーツさんにあげますよ!」
「貴様とやるのはなんか嫌だ」
「やるって何を? よく分かりませんが、そんなにあからさまに拒否されるとちょっと傷付くんですけど……!?」

ぐいぐいと詰め寄ってくるヘイムダルを押し返し、クウォーツは軽く溜息をつく。
悪魔族は性行為によって互いに精気を得ることができるのだが、これはヘイムダルには言わない方がいいだろう。
この勢いでは身を差し出してくるかもしれない。ならば、ここは大人しく言うとおりにしていた方が賢い選択だ。


「何でもいいと言ったな」
「はい!」
「ならば、貴様はロールキャベツという料理を知っているか」
「何回か作ったことがありますよ。でも、意外だなあ。クウォーツさんって割と庶民的な料理が好きなんですねぇ」

「? 好きというわけでは」
「好きだからリクエストしてくれたんじゃないんですか? そもそも、嫌いな料理ならリクエストしないでしょう」
「……そうなのか」
「ふふふ、ロールキャベツですね、分かりました。びっくりするほど美味しく作りますから!」

ヘイムダルは満面の笑みを浮かべ、早速買い物に行くために慌しく部屋を去って行った。
ばたんと閉じられた扉を一瞥したクウォーツの顔は、先程までの会話が嘘であったかのように酷く人形めいていた。







「……なんだ、ヘイムダルじゃないか。休みの日にお前が家から出るなんて珍しいこともあるもんだな」

農作業具を肩に担ぎ、早朝の菜園に辿り着いたスミスは思わず目を丸くする。
普段はいじけたように大きな背を丸めつつ歩いているヘイムダルが、しっかりと前を向いて歩いていたためである。
長年ヘイムダルと顔を合わせているスミスですら見たことのない光景だ。一体何があったのだろうか。


「おはようございます、スミスさん。本当に気持ちのいい朝ですね」
「ん? おう、そうだな」
「この大きなトマトも明日には収穫できますよ! 町で一番のトマト好きのイナッフさん一家もきっと喜びますね」

菜園で綺麗に色付いている真っ赤なトマトを満足そうに眺めていたヘイムダルは、笑顔を浮かべながら振り返った。
聞いたこともないような彼の明るい声を耳にして若干気後れしてしまったスミス。
ヘイムダルはもっと図体に似合わず消え入りそうな声をしていなかったか、と昨日の記憶を思い起こそうとするが。

……目の前で笑顔を浮かべている彼の印象があまりにも強く、今までのいじけた姿を思い出すことができなかった。


「これからどこかに出掛けるのか?」
「ええ、久々に市場に買い物に行こうと思って。こんなに天気のいい日は、心まで晴々としてくるものなんですね」
「行くのはいいが、また子供達に石を投げられて泣いて帰ってくるんじゃないぞ?」
「はい。では失礼します!」

明るくはきはきと話すヘイムダルの姿はとても新鮮だ。一夜のうちにまるで別人である。
大きく手を振って去っていくヘイムダルの姿を眺め、『あんな笑顔もできるんだな』とスミスは思ったのであった。







テーブルの上には、出来立てのロールキャベツが乗った皿が湯気を立てて置かれている。
クウォーツが硝子の瞳をちらりと横に向けると、早く食べろと言わんばかりの表情を浮かべているヘイムダルの姿。
先程からずっとこんな調子で彼に見つめられている。はっきりいって一挙一動を観察されているような状況だった。

「クウォーツさん、食べないんですか? せっかく出来立てなのに、温かいうちに食べてほしいんですけど……」
「何故見つめる」
「気にしないで下さい、オレが見ていたいだけなんで。もしかして視線が気になるようでしたらすみません」

「意味が分からない。私を眺めていたところで何も面白いことはないだろう」
「あんたを眺めているだけでオレは十分幸せですよ。この世にはこれほど綺麗な人が存在しているんだなあって」

食欲というものがほぼ欠如しているため、クウォーツにとって食事を取るという行為は凄まじく意味のない行為だ。
気があまり進まなかったが、適当に小さく切り分けたものを口に運んでみる。……やはり味がよく分からない。
表情もなく更に無言で食べているクウォーツの姿は、料理の感想を聞く側としてはなかなか緊張する光景であろう。


「どうですか? 今回は結構自信があるんですけど。味付けもしっかり考えてみたんですよ!」
「……」
「や、やっぱり美味しくなかったですか」
「よく分からない」

そもそも味の良し悪しが彼には分からなかったのだ。
ティエル達と旅をしていた頃は、何故かやたらとジハードやリアンがこの料理を作ってくれていたような気もする。
それはクウォーツが唯一気に入った料理としてあの二人が認識しており、少しでも彼に喜んでほしかったためだ。


「えーっ、よく分からないなんて言われるのは悲しいなあ」
「そう言われても」
「見てて下さい。いつかクウォーツさんに、必ず美味しいと言ってもらえるような料理を作ってみせますからね!」

素っ気無い言葉にもめげず、ヘイムダルはぐっと両手の拳を握り締めた。こんなやり取りでさえも幸せだと感じた。
誰かと気兼ねなく話せる日常が。何気ない会話ができる日常が。それが何よりも幸せだと……そう思った。





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