Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第59話 ささやかなる幸せな日常




「おはようございます、スミスさん。今日も一日よろしくお願いします!」

様々な野菜が実る菜園に囲まれた一軒の古びた民家。木製の壁に沿って並んでいるのは、野菜が入った大きな籠だ。
スミスの家は代々野菜農園を営んでおり、その菜園で採れる野菜は町一番の甘みだと評判が高い。
野菜嫌いの子供達ですら笑顔で人参やピーマンを食べてくれるのだと、主婦達から毎日のように多くの注文が入る。

勿論主婦だけではなくレストランを営むシェフや、町唯一の酒場のマスターであるポルタも大切な常連客であった。
もっと菜園を広げてはどうか、と何度も誘いがあったがスミスは全てそれを断っていた。
あまり大きく広げる気はない。細々と、たとえ一人でも営んでいけるような規模が丁度良いとスミスは思っている。

実を言うと、野菜作りの殆どにはヘイムダルが大きく関わっている。甘くなる野菜の栽培も全て彼が考案したのだ。
だが他ならぬヘイムダル自身が、その事実を町の人々には絶対に伏せておいてほしいとスミスに懇願した。
折角の甘くて美味しい野菜もヘイムダルが育てたものだと知れれば買わなくなってしまうだろうと思い込んでいる。

父親亡き後ずっと面倒を見てくれた恩のあるスミスに迷惑を掛けてはいけないと、彼なりに考え出した結論だった。


……ヘイムダルの本音は、皆に認めてもらいたかった。
とても美味しいと町の人々が喜んで食べてくれる野菜は自分が育てたのだと、胸を張って堂々と言いたかった。
しかし彼がそう声に出した瞬間、人々は汚らしいものを見る目付きをしながら野菜を投げ出して去っていくだろう。

いつもそうだった。目を合わせると、相手は顔を歪めながら視線を背けてしまう。
談笑している者達の横を通り過ぎれば、醜い化け物が来たぞと、ヘイムダルに聞こえるように大きな声で罵られた。
だが、もう気にならない。気にする必要はないのだ。何を言われても、しっかりと前を向いて歩いてもいいのだ。


「最近、随分と機嫌がいいじゃないか。ヘイムダル」
「えっ?」
「いつもいじけたように背中を丸めながら、暗い顔でぼそぼそと挨拶していたお前がさ。少しはマシになったぞ」
「本当ですか? ……へへへ、ありがとうございます。まさかスミスさんにそう言われるとは思いませんでした」
「どういう意味だよ」

丁度菜園に向かうところだったのか、戸口に立っていたスミスは大きなあくびをしながら右手に鍬を担いでいる。
確かにスミスの言うとおり、最近は背中を丸めることも大分少なくなったようにヘイムダルは自分でも感じていた。
壁に立て掛けられている鍬と肥料を担ぐと、彼はスミスの背を追いながら笑顔を浮かべる。


「ある人に、何を言われても堂々としろって言われて……いつまでも背中を丸めながら生きていたら駄目だなって」
「ほーん。なんだよ、幸せそうに話すじゃないか。お前にそんな台詞を言ってくれるやつなんていたのかね」
「……いたんですよ。オレ、人生で今が一番幸せです。できれば、一生その人を大切にしたいと思っているんです」

「ヘイムダルのくせに惚気てるんじゃないぞ。オレが独り身なのを知っていながら、そんな話をするわけね……」
「あっ!? い、いえ、そういうつもりじゃないんですよスミスさん!」
「まぁいいけどな。ここ一ヶ月は町を騒がせていた青い髪の悪魔族も現れなくなったし、この町も平和になった」
「……」

「お前もそろそろ幸せになってもいいんじゃないかって、オレは最近思ってるんだよ。一応亡き親友の息子だしな」


ふと立ち止まったスミスは彼を振り返る。その目は逸らさずに真っ直ぐにヘイムダルを見つめていたのだ。
知らなかった。いつも背を丸めて下を向いていたために気付かなかったが、いつだってスミスは彼を見ていたのだ。
父親亡き後、身寄りもなく途方に暮れるヘイムダルに唯一手を差し伸べてくれた男だった。感謝してもしきれない。
同じく立ち止まったヘイムダルは、思わず滲んでしまった涙をごしごしと袖で拭った。

「スミスさん。ありがとうございます……」







午前中は農作物の世話、そして午後からは配達の仕事が待っている。
小さなこの町で数少ない娯楽の一つが酒場だった。毎日大量の注文をしてくれる、スミスにとってお得意様である。
大きな籠に野菜を詰め込むとヘイムダルは酒場に向かって大通りをゆっくりと歩き始めた。

今日はこの配達で最後だ。彼が何よりも安らぎを覚える家に帰ることができる。今すぐにクウォーツの顔が見たい。
常人では到底持ち上げることのできない野菜の量であったが、怪力を誇るヘイムダルには大した重さではなかった。

酒場に辿り着くと、店の中にまで入ってくるなと散々釘を刺されていたことを思い出した彼は入口前で立ち止まる。
ベルを鳴らせば店員の誰かが荷物を引き取ってくれるだろう。ふう、と息を吐きだすとベルに向かって手を伸ばす。
その時。ヘイムダルが歩いてきた方向とは逆の方向から、一人の中年の男がこちらに向かって歩いてきたのだ。

汚れた長い茶髪を背後で一つに括り、大きな荷物を背負っている。粗暴な雰囲気を漂わせ、眼光はぎらぎらと鋭い。
その男が酒場の戸を開けようとした瞬間、身を引いたヘイムダルの肩に彼の手がぶつかってしまった。


「ちっ……痛ぇじゃねぇか、この不細工な化け物が!」
「す、すみません」

早く謝らなければ。即座に頭を垂れたヘイムダルだが相手の男は忌々しそうに顔を歪めると彼に向かって唾を吐く。

「目障りだ、消えろ。……オレは獲物に逃げられて苛々してるんだ。畜生、あの淫売野郎め、よくもオレを……!」
「おいおい揉め事か? 店の前で騒がれちゃ困るよ……って、なんだヘイムダルじゃないか。それにあんたは確か」

男の怒鳴り声が店の中にまで響いてきたのだろう。困り顔のマスターが入口から顔を覗かせた。
ヘイムダルを目にすると不快そうに眉を顰め、そして茶の髪をした男に顔を向けるとマスターは驚きの声を上げる。
見知った顔だったのだろうか。だがただならぬ不穏な空気を察したヘイムダルは、更に一歩後ろに下がった。


「あんた、悪魔ハンターさんじゃないか! 一ヶ月も戻らなかったから、殺されちまったかと心配していたんだよ」
「あの淫売にやられた傷が治るのに一ヶ月も掛かっちまったんだ。とんだ屈辱だぜ……まさかこのオレが」
「それじゃあ悪魔族を始末してくれたんだな!? あんたが出て行った日以来、めっきり姿を現さなくなったんだ」

「……足に重傷を負わせたが、オレとしたことが油断して仕留め損なった。だがヤツは必ずこの町に潜んでいるぜ」
「えっ!?」
「あの傷の様子じゃ歩けるようになるまで早くて一ヶ月。そろそろヤツの方も動き始める頃だろうな」

「この町に潜んでいるって……そりゃあ大変なことじゃないか!? 早く何とかしてくれよ、悪魔ハンターさん!」


ぎくりとヘイムダルの表情が強張った。この粗暴な男は、間違いなくクウォーツを追ってきた悪魔ハンターである。
そして彼にあれほどの大怪我を負わせた張本人だ。怒りのために思わず彼は拳を握り締める。
だが今この男を殴るわけにはいかない。不自然さを悟られぬように、早くこの場から立ち去った方がいいだろう。

「そ、それじゃあ失礼します。ポルタさん」
「なんだ……まだいたのかヘイムダル。こんな大変な時に、相変わらずお前はいじけた不細工な顔しがやって」
「……すみません」

「そういえばお前、ミュラーさんの家の裏手の崖の補強をいつになったらするんだ。本当に使えない木偶の坊だな」
「あ……はい、分かりました。今夜必ず補強に行きますから」


また一歩下がって礼をしたヘイムダルは、二人から顔を背けると逃げるようにして去って行った。
足早に我が家に向かっていく途中で、言いようのない不安に胸が押し潰されそうになる。怖い。とても怖かった。
悪魔ハンターの鋭い眼光が。恨みの籠った声が。あの男に幸せを全て壊されてしまいそうで、不安でたまらない。

誰かが側にいてくれる。帰りを待っていてくれる人がいる。何よりも、誰よりも大切にしたい愛しい存在ができた。
そんな喜びを知ってしまった今、再び孤独の毎日に戻るなんてもう耐えられるはずがない。

鬱蒼とした林に隠されるように建つ我が家の前に漸く辿り着く。周囲は静まり返り、まるで閉ざされた世界だった。
それでいい。いっそのこと、永遠に閉ざされたままでいい。この家の中だけがヘイムダルの幸せの全てなのだから。
荒い呼吸を鎮め、ゆっくりと扉を開いた。


内側のノブに引っ掛けていた手作りの鳴り物が、乾いた音を鳴らす。背を向けていた人物がその音に振り返った。
さらさらとした青い髪に硝子の瞳。まるで透き通るような白い肌。等身大の人形めいた、誰よりも美しい容姿。
この青年は妖しき夜の住人と呼ばれる正真正銘の悪魔族である。人間とは決して相容れない存在のはずだった。

「……クウォーツさん」


ヘイムダルがそう呼んだ彼は、全く動かぬ表情のまま顔をちらりと向けただけで、再び視線を手元に戻していた。
キッチン横の簡易な木の椅子に腰掛けながら、どうやらクウォーツは野菜の皮剥きを続けているようだった。
大きな指輪をいくつも嵌めている手の割には綺麗な螺旋を描いて皮が剥かれている。だが手付きが危なっかしい。


「皮剥きなんてしなくていいですよ。折角足も治りかけているのに、歩いたらまた酷くなっちゃうじゃないですか」
「……」
「もー、聞いているんですか? 大体包丁をそんな変な持ち方していたら、そのうち手を切っちゃいますからね?」
「いい加減私を病人扱いするな。それにそんなへまはしない」

すっかり耳に慣れた抑揚のない声。彼の姿を目にすると、先程まで感じていた不安は一気に吹き飛んでしまった。
きっと大丈夫。ここなら悪魔ハンターに見つかることはないだろうと、ヘイムダルは己に言い聞かす。
クウォーツの前で不安な表情を見せてはならない。人一倍鋭い彼はヘイムダルの異変にすぐ気付いてしまうだろう。

悪魔ハンターが近付いていると知れれば、きっとクウォーツはすぐにでもこの家を出て行ってしまう。
それだけは絶対に避けなければ。できる限りこの幸せな時間を手放したくはないとヘイムダルは考えていたのだ。


「だからってクウォーツさんが料理を作るのは無理だと思うんですよね。あんた、炒め物消し炭にしちゃいますし」
「炒める加減が分からない」
「料理はオレの仕事です。さぁ、クウォーツさんは暖炉の前で座っていて下さい、今日は普段より冷えますからね」

こくりと頷いたクウォーツは、ヘイムダルに包丁を渡すとブランケットを肩に掛けながら暖炉の前まで歩いていく。
フリルの装飾がされた薄いブラウス姿では恐らく寒かったのだろう。想像していたよりも素直であった。
一ヶ月ほど前。まだクウォーツと出会ったばかりの頃は、左足を矢に射抜かれて歩けぬほどの大怪我を負っていた。

今では青紫色に変色していた部分もすっかり小さくなっており、ゆっくりと歩ける程度には回復しつつあるようだ。
……だがそれは、確実にヘイムダルとクウォーツの別れが近いことを意味していたのだ。





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