Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第60話 それはまるで涙のように
そろそろ日が暮れ始め、窓の外から徐々に雨音が響いてくる。あんなにも日中はいい天気だったのに。
この雨の勢いでは夜になれば本格的な大雨になるだろう。農園は大丈夫だろうか、とヘイムダルは表情を曇らせる。
昔から地盤が緩い地域であり、雨水を吸った土砂が民家に向かって崩れ落ちることも珍しい話ではなかったのだ。
以前長期の雨が降り続けたことがあった。町は小規模の洪水に見舞われ、崖に面した家が土砂に埋もれてしまった。
幸い住人達は事前に避難をしていたこともあり、怪我人は出ずに水もすぐに引いた。
しかし一体誰が言い始めたのか……この洪水は町の疫病神であるヘイムダルの所為ではないかという噂が広まった。
勿論根も葉もない噂話である。
ただの人間であるヘイムダルが洪水を起こせるはずがないと、町の人々も心のどこかでは理解をしていたはずだ。
その日から彼に対する人々の態度は更に冷たくなった。誰かを槍玉に挙げなければ不安でたまらなかったのだろう。
けれどその不安を取り除くために誰か一人を犠牲にするなんて、とても恐ろしいことだとヘイムダルは思っている。
自分はただひっそりと暮らしているだけなのに。何故そんなことを言われ続けなければならないのだろう。
生きているだけで、ただ醜いというだけで人々は悪気もなく差別をするのだ。本人達は差別をしている意識もない。
テーブルを挟んだ向かいの席ではクウォーツが赤い長剣を磨いている。美しい薔薇の装飾がされた細身の剣だった。
そんなもの、もう必要ないでしょうと言いたかった。ずっとここで暮らせば剣を握ることなど二度とないのだから。
クウォーツの利き手である左手は、滑らかな右手に比べると随分と痛んでいる。……折角綺麗な手をしているのに。
彼には彼なりの、ヘイムダルには想像もつかないような人生を歩んできたのだろう。
剣を握り続けなければならなかった人生など想像がつかない。きっと、想像を絶するような過酷な状況だったのだ。
「……クウォーツさん」
野菜の皮を剥く手を止めたヘイムダルは顔を上げ、暖炉に近い椅子で剣を磨き続けているクウォーツに声を掛ける。
彼は剣を磨く手を止めぬまま顔すら上げない。そんな態度もすっかり慣れたヘイムダルは、そのまま言葉を続けた。
素っ気無い態度のクウォーツだが、きちんと会話は聞いていることが多い。ただ、返事をしないだけである。
「その指輪、誰かから貰ったものなんですか」
「?」
「左手の薬指にずっと指輪を嵌めているじゃないですか。だから……誰か将来を約束した相手がいるのかと思って」
漸く顔を上げたクウォーツは無言で首を傾げるだけであった。
そもそも彼は左手の薬指に対して何の思い入れもない。ただサイズが合ったために、メビウスの指輪を嵌めている。
他の指輪は外して無造作にテーブルの上に置いていた時もあるが、この指輪だけはただの一度も外したことはない。
そんなクウォーツの様子が、思い入れの強い大切な指輪にヘイムダルは見えたのだ。
「そんなことを聞いてどうする」
「やっぱり気になるじゃないですか。好きな相手のことは、何でも知りたいなって思うのは当然のことでしょう?」
「意味が分からない。大体この指輪はそういう類のものではなく、たまたま左手の薬指のサイズに合っただけで」
「ほ……本当ですか!? じゃあクウォーツさんは結婚もしていないし、恋人もいないってことですよね!?」
「見れば分かるだろ」
「いやいや全然分かりませんよ! 大体あんた、凄い数の恋人がいそうですし。しかも相手は王様や貴族だったり」
「さあ。昔のことは忘れた」
ここ数週間ヘイムダルを悩ませ続けていたクウォーツの指輪の存在だったが、あっさりと解決してしまった。
心底ほっとした表情を浮かべると、再び剣を磨き始めているクウォーツを今度はしっかりと前を向いて見つめる。
肉に埋もれかけた黒い瞳には迷いはなく、出会った当初のヘイムダルとはまるで別人のように力強くもあった。
「クウォーツさん」
「?」
「その指に違う指輪を嵌めてほしいんです。オレ、一生懸命働きます。絶対にあんたに似合う指輪を渡しますから」
気の弱いヘイムダルにとっては、相当の勇気を振り絞って言ったのだろう。
顔を真っ赤にさせながら言い切った彼の姿を、クウォーツは顔を上げると暫くの間眉すら動かさずに眺めていた。
一体沈黙がどれほど続いたのか。磨いていた赤い剣をテーブルに置き、クウォーツはいつものように淡々と言った。
「指輪を貰う理由がない」
「理由ならあります。オレはいつまでもあんたに側にいてほしい。できれば、一生オレの側にいてほしいんだ」
「何度も言っただろう、私はこのままここで暮らす気はないと。感謝はしている、けれど……これ以上は」
「最近あんたは剣ばかり磨いている。もういいじゃないですか、そんな危険なものを握り続ける毎日なんて!」
「……」
「この家なら剣を握り続ける必要もない。あんたは何もしなくていいんだ、一生オレの側にいてくれるだけでいい」
ヘイムダルにしては強めの口調で身を乗り出した。
テーブルの上に置かれているクウォーツの手の上に己の手を重ねるが、あまりの冷たさに一瞬驚いてしまった。
だがそれでもヘイムダルは彼の手を強く握りしめた。そうでもしなければ、どこかへ行ってしまいそうだったから。
「悪魔ハンターから必ず守ってみせます。お願いだ。あんたがいなくなったら、オレはまた一人になってしまう。
帰りを待っていてくれる人がいない毎日なんて、オレにはもう耐えられない。誰もいない家に帰るのが怖いんだ」
「……」
「ねえクウォーツさん。辛いことだって一緒に乗り越えていきましょう。苦しみも悲しみも、きっと二等分できる」
ヘイムダルが握っていた彼の手が、その時微かに動いた。
暫くの後。ふるふると力なく首を振ったクウォーツは口を開く。硝子の瞳は普段よりも随分と暗い色をしていた。
「それは、違う。……貴様は勘違いをしている」
「何が違うっていうんですか!? オレのこの気持ちに偽りはない!」
「貴様が死ぬまで一生この家から出ずに側にいろと。ただ貴様の帰りをこの家で私に待ち続けろと言っているのか」
「家の外は危険ですからね。クウォーツさんは何もしなくていいんですよ。ずっとずっとオレの側にいてくれれば」
「……それではただの人形だ。私は人形じゃない。貴様の寂しさを埋めるためだけにここで生き続けろというのか」
「ち、違います。クウォーツさん、オレはそんな……」
「何が違う。貴様は自分の相手をしてくれる人形を、この家の中でいつまでも飼い続けたいだけだ」
クウォーツの言葉に、思わずヘイムダルの身体が強張った。まるで隠した心の奥底まで見透かされた気分であった。
心のどこかにそんな思いが全くなかったとは言えない。自分のために、クウォーツを一生この家に繋ぎ留めたいと。
都合のいい人形であることを気付かぬうちにクウォーツに強いてしまっていた。それは、最も彼が嫌う行為だった。
重ねられた手を振り払ったクウォーツは、赤い剣を掴むと椅子から立ち上がる。
「いつまでも私がいると、貴様にとって良くないことが分かった」
「オレ、そんなつもりじゃ……なかったんです。あんたに側にいてほしいと思ったことは、本当のことで」
「……今まで世話になった。明日の夜、ここを出る」
絞り出すようなヘイムダルの声にも、彼はもう振り返らなかった。
しかしそれは却って良かったのかもしれない。今は、クウォーツの瞳から目を逸らさずに会話ができる自信がない。
部屋に向かっていく華奢な後ろ姿を、ヘイムダルは涙を溢れさせながら眺めていることしかできなかった。
このままではクウォーツが本当に出て行ってしまう。早く引き留めなければ。だが、本当にそれでいいのだろうか。
元々彼は目的があって旅をしていたのだろう。それを引き留める行為自体が、ヘイムダルの我が侭なのではないか。
何もするな、家から一歩も出るな、ただ寂しさを埋めるためだけに存在してくれと。先程の言葉はそういう意味だ。
そうヘイムダルから言われた時のクウォーツは、見せたこともないほど暗い色を瞳に浮かべていた。
……傷付けてしまった。何よりも大切にしてきたのに、取り返しのつかないほど彼の心を傷付けてしまったのだ。
今はクウォーツとまともに顔を合わすことができない。頭を冷やすために暫く外に出ようと、扉のノブを掴んだ。
外は随分と雨が降っていた。扉をゆっくりと閉めたヘイムダルは、傘も持たずにぬかるんだ林の道を歩き始める。
俯きながら林を抜けると、雨に濡れた大通りが見える。スミスの菜園に向けていた足を止めて、ふと立ち止まった。
そういえば酒場のマスターから、ミュラー家の裏手にある崖の補強を頼まれていたことを思い出す。
この雨の勢いでは崩れてしまう危険性もある。あの家の奥さんは、菜園で採れた野菜を大変気に入ってくれている。
先日も『じゃが芋がとても美味しい』と言ってくれた。何気ない一言だが、ヘイムダルは幸せな気分になったのだ。
立ち止まって悩んでいるよりも、誰かの役に立っている方がずっといい。一人でも生きていけるように強くなろう。
クウォーツと出会えたことは奇跡だったと思うことにしなければ。美しい思い出として、心の支えにしていこう。
そう心に決めたヘイムダルは足早にミュラーの家へと向かう。勿論雨の降る大通りには誰一人として歩いていない。
ミュラー家は大通りから脇道に逸れ、なだらかな坂を上った先にある夫婦二人で住んでいるこじんまりとした家だ。
家の裏手には土砂の積み重なった崖があり、過去の大雨では何度か崩れそうになったことがあった。
ならば引っ越せばいいのだろうが、先祖代々から受け継がれている家をミュラーは手放す気はないと言っていた。
そんなことを考えながら歩いていると、漸くミュラー家に辿り着いた。おずおずと濡れた手で呼び鈴を鳴らす。
この家の主人はヘイムダルを化け物を見るような目付きで眺めていることが多いため、彼にとって苦手な人物だ。
暫くしてから、不快な気分を全く隠そうともせずに六十代前半の気難しそうな男が扉から顔を覗かせた。
「おい、来るのが遅いぞ。酒場のポルタさんから聞いていただろう。本当に図体ばかりが無駄に大きな役立たずが」
「……すみません。ミュラーさん、段々と雨が酷くなってきています。早く崖の補強作業に取り掛かりましょう」
「あぁ? 何言ってやがる」
「えっ」
「なんでオレまでこんな危険な仕事をやらなきゃならないんだ。……ったく、今夜中にさっさと終わらせろよ!」
冷たく言い放ったミュラーは、板の束とロープをヘイムダルに向かって放り投げると乱暴に扉を閉めてしまった。
乾いていた木の板に雨水が染み込んでいく。こんな板と細いロープで崖の補強ができると思っているのだろうか。
だが、やらねばならない。板が足りなければ、樽を崩せばいい。代わりになるようなものを打ち付けなければ。
これは己に対する戒めだ。クウォーツを人形扱いし、心ない言葉を掛けてしまった自分に対する戒めなのだ。
崖の補強をやり遂げたところで、彼に投げ掛けた言葉が帳消しになるわけでもない。ヘイムダルの自己満足である。
徐々に雨が酷くなってきているようだ。身体に容赦なく打ち付ける雨水を拭い、ヘイムダルは黙々と補強を始めた。
脆くなった土を固め、板で補強して太い釘を打ち付ける。雨のために金槌を握る手が滑り、何度も指を打ち付けた。
……痛い。とても痛かったが、腫れ上がった指をどこか他人事のように見つめている自分がいる。
知らず知らずのうちに涙が溢れていた。雨が全てを洗い流してくれればいい。涙と雨水が混ざって頬を伝っていく。
壊れぬように慈しむように、ずっと大切にしていきたいと思っていた。決して人形として扱っていたわけじゃない。
最初は、側にいてくれるなら誰でもよかったのだ。相手がクウォーツではなくても、スミスや他の誰でもよかった。
それが……他の誰でもなく、クウォーツ唯一人だけが側にいてほしいと思い始めたのは、一体いつからだったのか。
クウォーツが見せるほんの些細な言動に、心を大きく揺さぶられるようになった。不安を抱えることも多くなった。
だがそれと同じくらい幸せと感じることも増えた。……抱いたことのない感情だ。友愛ではなく、家族愛とも違う。
彼の左手の薬指に、自分が贈った指輪だけを嵌めていてほしいと強く思った。ああ、もしかしたら。この感情は。
……みしり、と。雨音に混じって、上から嫌な音が鳴った。
気のせいか。作業の手を止めたヘイムダルは静かに見上げてみる。ぱらぱらと小さな石がいくつか降ってきた。
最初は小さな石から、降ってくるのは段々と大きな石に。しっかりと補強をしたはずの板が嫌な悲鳴を上げている。
まずい、と。状況を悟ったヘイムダルが一歩後ろに下がると同時に、激しい音を立てながら崖の土砂が崩れ始めた。
「うわああぁぁっ!?」
地面がぬかるんで足を取られてしまう。
ヘイムダルの悲鳴は完全に雨音にかき消され、ぬかるみに転倒した彼の背に向けて次々と土砂が降り注いでいった。
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