Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第61話 Melodies of Heart -1-
雨は一向に降りやまず、激しさを増すばかりであった。
こじんまりとしたダイニングテーブルの上で一本の蝋燭がゆらゆらと炎を灯しており、薄暗い部屋を照らしている。
時折響く雷鳴。カーテンの隙間から光が差し込み、テーブルで頬杖を突いたクウォーツの顔に濃い陰影を作り出す。
瞬きすら忘れたその様子は、まるで精巧に作られた美しい人形だ。ただ人形にしては艶めかしく淫靡な人形である。
クウォーツが使用している寝室は、ヘイムダルの父親が生前に使っていた部屋だと聞いた。
明日の夜にはこの家を発つと決めた彼は身の回りの整理を始めており、粗方片付いたために居間に姿を現したのだ。
だがそこにはヘイムダルの姿はなく、クウォーツはテーブルに肘を突いたまま彼の帰りをじっと待ち続けていた。
それから数時間。雨の日はよくヘイムダルは菜園の様子を見に行っていたことを思い出すが、いくらなんでも遅い。
この家から菜園までは十五分ほどで辿り着くと言っていた。雨の視界の悪さでも、数時間は掛からないだろう。
最後に目にしたヘイムダルの表情は、とても思い詰めたような絶望的な顔をしていた。あんな彼の顔は初めて見た。
クウォーツに対して『一生懸命生きている』と言った彼に、恐らく悪気はなかったのだろう。それは分かっている。
分かってはいるが、家から出ずにただ側にいろというのは明らかにクウォーツの意思を無視した発言ではないか。
だからこそクウォーツは『人形をいつまでも飼いたいだけ』なのだと、彼に対して少々誇張した表現で言ったのだ。
……もう、今夜は休もう。ヘイムダルが帰ってきても、暫くクウォーツと顔を合わせることを気まずく思うはずだ。
勿論そんな繊細な感情など彼は全く理解できなかったが、そういった感情が存在していることは知っている。
一度決断するとクウォーツの行動はとても早い。両手をテーブルに突いてから、彼は静かに椅子から立ち上がった。
左足の痛みは既にない。青紫色に変色した部分も、ほぼ消失している。
負担をかけてしまう戦闘はもう暫くの間は無理だろうが、日常生活に支障はない。ただ戦わなければいいだけだ。
部屋に戻ろうと歩き始めた時。ふとクウォーツは外へ続く扉に顔を向ける。壁に掛かった色褪せたレインコート。
そして、一本しかない傘がぽつんと置き去りにされている。
レインコートや傘がここにあるということは、ヘイムダルは雨を避ける術を持たぬまま外に出たということになる。
彼が出て行ってからどのくらいの時間が経ったのだろう。少なくとも五時間以上は経っている。
一体何が目的で出て行ったのかは知らないが、この雨で帰れずにどこかの軒先で雨宿りをしているのかもしれない。
この気温では、頑丈が取り柄のヘイムダルも風邪を引いてしまうだろう。それもクウォーツには関係のないことだ。
そう、全く関係のないことである。感情のない硝子の瞳で傘を眺めてから、彼は再び部屋に向かって歩き始めたが。
振り返って傘を見つめる。元は何色だったのか、随分と色褪せた傘。雨の日は必ずヘイムダルが手にしていた傘だ。
……自分が去った後で風邪を引かれるのも、なんとなく気に入らない。
クウォーツは戸口まで歩いていくと朱色のレインコートを着込む。しっかりとフードを下ろすと口元しか見えない。
そして色褪せた傘を左手で握る。仕方がない、どこかの軒先で寒さに震える大男を迎えに行ってやろうではないか。
家の外は想像していた以上に雨が地面を叩き付けている。一ヶ月振りに外を歩く割にはしっかり歩けているようだ。
ヘイムダルの家を囲むような小さな林を抜けると、恐らく大通りへと続く道が真っ直ぐに続いている。
体感的にそれほど大きな町ではないようだ。差別が酷い場所というのは、どこか閉鎖的で狭いコミュニティが多い。
身体が鈍らぬように、部屋の中でリハビリを続けていたことが功を奏したようだ。歩く分なら何も問題がない。
華奢な体型だと言われることが多いが、これでも努力を続けている。強くなるためには何だってしてやるつもりだ。
大通りにはヘイムダルどころか誰一人として歩いている者はいなかった。
雨宿りをするとなると、やはり民家の軒先だろう。それも大通りに面した場所ではなく孤立した民家かもしれない。
冷たい雨が行く手を阻むように叩き付けてくる。気温も低い。これは予想以上に体温と体力を削り取られてしまう。
病み上がりの状態で出歩くには些か早かったかもしれない。できるだけ早くヘイムダルを家に連れ帰らねば。
大通りを外れて民家の少ない方へと向かっていくクウォーツの目に、いくつかの灯りが映った。人が集まっている。
用心深く近付いていくと、どうやらカンテラを手にした十数名ほどの町人達が何かを遠巻きに眺めているようだ。
……土砂崩れだ。この雨で背後の崖が土砂崩れを起こしたのか、小さな家が半分ほど土砂で埋まっている。
「嫌だわ、怖い……いつか雨で崩れるとは思っていたけど、やっぱり崩れちゃったのね。ミュラーさん家の裏の崖」
「この間の大雨できっと緩んでいたんだよ。今回の雨がとどめになっちまったなぁ」
「ミュラーさんも早く引っ越しすればよかったんだ。奇跡的に夫婦二人は無傷だったし、この家は懲り懲りだろう」
レインコートのフードを更に深く下ろし、不安そうな表情を浮かべた町人達の横をクウォーツは足早に通り過ぎる。
横目で埋もれた家を眺めると完全に倒壊している。住人の夫婦は無傷だったと言っていたが、運が良かったのだ。
これほどの土砂崩れに巻き込まれていたならば、恐らく命はなかっただろう。
家の主人だろうか。禿げ上がった中年の男がぎりぎりと歯ぎしりをしながら、真っ赤な顔で怒りの声を上げている。
隣で呆けたように崩れ落ちている女は、この男の妻だろう。
「こうなったのも全てあいつの所為だ! しっかり崖を補強しろと言ったのに、ほったらかしにしやがって!!」
「落ち着いてくれ、ミュラーさん。ここは危険だ。とりあえず今夜は教会に来なさいと神父様も言っている」
「畜生、これが落ち着いていられるか!? オレの家が……あの奇形の化け物が、ヘイムダルの野郎が悪いんだ!」
「今、なんと言った」
突如飛び出てきたヘイムダルという名に、思わず振り返ったクウォーツはつかつかと歩み寄ると男の胸倉を掴んだ。
崖を補強? ほったらかしに? ヘイムダルが悪い? 男の言葉には十分すぎるほど不吉な単語が並んでいた。
「貴様は今、ヘイムダルと言わなかったか」
「い、いきなり何なんだあんたは!? 離してくれよ!」
「……っ!」
突然胸倉を掴まれたことに腹を立てたミュラー家の主人は、クウォーツを乱暴に突き飛ばしたのだ。
病み上がりだったために身体のバランスを崩し、雨でぬかるんだ地面に足を取られ、彼は泥の水溜まりに倒れ込む。
びちゃりと跳ね上がる泥。汚いものを見るような顔でクウォーツを見下ろしたミュラーは吐き捨てるように言った。
「ヘイムダルの野郎に崖の補強を頼んでいたんだ。五時間ほど前にあいつがこの家に来たんだよ。それなのに!」
「ならば、あいつが途中で放置するはずがないだろう」
「じゃあヘイムダルは一体どこに行ったんだよ! ……ん? そういえば、あんた誰だよ。見たことがない顔だな」
「暗くて分からなかったけど、こいつ……もしかして青い髪じゃないか!?」
「!」
……突き飛ばされた衝撃でフードが落ちていた。しまった、とクウォーツがフードを戻そうとするが既に遅い。
雨に包まれた薄暗い中であったが、カンテラの光に照らされた彼の青い髪と尖った耳を町人達が見逃すはずがない。
大きな悲鳴を上げる者、カンテラを放り出して逃げ出す者。彼を中心として、潮が引くように町人達が遠ざかる。
「早く悪魔ハンターのガッシュさんに連絡するんだ!」
「この町のどこかに悪魔族が潜んでいるって、悪魔ハンターさんが言っていたことは本当のことだったんだな」
「……それにしても、こいつ……信じられないほど綺麗な顔してやがるな。……本当に男なのかよ?」
「さすが人を虜にして狂わせる悪魔だぜ。こんなやつが近寄ってくれば、そりゃあ誰だって魂を売り渡すだろ……」
「おい、見た目に騙されるなよ。こいつはオレ達を皆殺しにするつもりなんだぞ。さっさとくたばれ、化け物が!」
次々と投げ付けられる石や、鋭く尖った瓦礫の欠片。
幾つかは雨の中転倒したままのクウォーツの頭や顔に当たり、皮膚が裂けて溢れ出した血が雨水と交じり合った。
皆殺しとは一体何の話だ。もしも彼に感情が存在していたならば、眉を顰めながら言い返していたところだろう。
だがクウォーツにはどうでもいい話だった。自分が他人にどう思われているのかなど、僅かな興味もなかったのだ。
それよりも今は。彼は額から流れ落ちる血を拭い、ふらふらとした足取りで土砂の山まで進んでいく。
想像していたとおり、周囲には瓦礫に混ざり千切れた縄や折れた板が散乱していた。やはり崖の補強はされていた。
ヘイムダルは確かについ先程まで、ここで崖の補強をしていたのだ。その彼の姿がない。……もう答えは一つだ。
崩れた岩の隙間から、雨音に紛れて苦しげな低い呻き声が響いてくる。町人達もどうやらこの声が聞こえたようだ。
クウォーツが背後を振り返ると、石を掴んで投げ付けようとしていた者達は思わずぎくりと身体を強張らせる。
「聞こえたか」
「な、何をだよ」
「この中にヘイムダルがいる」
誰も動く者はいない。それでも彼は先を続けた。
「土砂の下敷きになった家の住人達は助けたのだろう。ならば、こいつも助けてやってくれ」
「……」
「……」
地面に叩き付けられる雨の音以外に、誰も音を発しない。町人達は暗い表情を浮かべながら顔を見合わせるだけだ。
誰一人として動き出そうとする者はいなかった。
「何故誰も動かない」
「悪魔族の兄ちゃんよ、あんたは知らないだろうが……この町でヘイムダルを助けようとするやつなんていねぇよ」
「だから何故だと言っている」
「ヘイムダルってのは醜い奇形の化け物なんだ。町の疫病神であるあいつに関われば、必ず好くないことが起こる」
「奇形を理由にする意味が分からない。あいつに関わることで実際に何かが起こったのか」
「それは……この間の洪水も今回の土砂崩れだってヘイムダルの所為だろう。あいつが災いを呼び寄せたんだよ!」
「ならば一体どんな方法で災いを呼び寄せた。祈祷か、魔術か。無理だ、あいつは魔力を全く持っていない」
「黙れ、悪魔族の分際でオレ達に偉そうなことを言ってるんじゃねぇよ!!」
「悪魔ハンターさんなんて待っていられねぇ。こいつ……もうオレ達だけでやっちまおうぜ」
「大体こんな女みたいなやつだとは思っていなかったからな。皆で力を合わせれば、簡単に殺せるかもしれないぞ」
カンテラを掲げながら筋骨逞しいヒゲの男が前に進み出る。それに続いて残りの男達もじりじりと歩み寄ってくる。
なんて愚かな者達なのだろうと、クウォーツは思った。いや、愚かとは少し違うのかもしれない。
戦う力を持たない脆弱な存在だからこそ、災いを常に何かの所為にしていなければ……不安で仕方がないのだろう。
だが、一人の善良な人間に全てを押し付けてまで平穏を得ようとするのは間違っている。許されないことだと思う。
本当に災いを呼び寄せる化け物と呼ばれる存在は、既に目の前にいるのだ。さあ、殺せるものなら殺してみろ。
……ゆらりと。
俯いたまま立ち上がったクウォーツの唇から、ぶつぶつと声にならない低音の声が洩れる。まるで呪いの声だった。
同時に赤い妖気が彼の周囲に渦巻いていき、蝙蝠によく似た大きく異形の『もの』が次々と生み出されていく。
十、二十、その数は更に増え続ける。生み出された『もの』をカンテラで照らした男が、ひっと小さな声を上げた。
針金のような毛に覆われた身体に鋭い牙。今にも獲物に喰らい付こうと、生温かい息と共に唾液を滴り落とす魔物。
がしゃんとカンテラが地面に叩き付けられ、いきり立っていた町人達は一歩、また一歩と後ろに下がり始める。
「お……おい、この男……変なものを呼びやがったぞ」
「みんな、早くこいつから離れるんだ!」
「……まさか本当にこいつ、化け物だったのか……!?」
「化け物?」
そう呟きながら顔を上げたクウォーツの瞳だけが、暗く影になった顔の中で赤い光を宿しながら爛々と光っていた。
深紅の霧をゆらゆらと身体に纏い、多くの使い魔を従える姿は……まさに悪魔の頂点に君臨するヴァンパイアの姿。
「よく目に刻み込んでおけ。本当の化け物とは、私のような存在をいうのだよ……!」
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