Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第64話 Melodies of Heart -4-




町人達から一斉に視線を向けられても、扉を開け放ったまま呆然と立ち尽くすヘイムダル。全身の怪我が痛々しい。

大きく肩で息をしている様子から一直線に教会に向かってきたのだろう。
勿論視線の先はクウォーツである。ヘイムダルの視界には、神父や町人達ではなく彼一人しか映ってはいなかった。
そんな泣き出しそうな表情を浮かべているヘイムダルの視線を受け止めても、クウォーツは眉すら動くことはない。


「……どうして」

その巨大な体躯からは到底想像もつかないような、弱々しく消え入りそうな呟きがヘイムダルの口から発せられる。
町人達は誰一人として聞き取ることができなかったが、唇の動きを読んだクウォーツだけは彼の言葉を理解した。
ヘイムダルが眠っている間に全てを終わらせるつもりであった。どうやら、彼の回復力を少々甘く見ていたようだ。

「手を握っていてくれると言ったのに。側にいてくれると言ったのに。どうして……そんなところにいるんですか」


まずいな、とクウォーツは思った。町人達の中ではヘイムダルと悪魔ハンターが協力者だということになっている。
ハンターの要請で悪魔族を仕方なく匿っていたという設定であるのに、かばうようなことを言われては台無しだ。
何一つ変わることのない無表情のままでクウォーツは瞬時に思考を巡らせる。

……もしかしたら。この事件が、ヘイムダルに対する考え方を町人達が改める絶好の機会になるかもしれないのだ。
だが実際にはヘイムダルは悪魔ハンターとは何の関係もない。自らの意志でクウォーツを匿っていた。
事実が知られてしまえば彼は人間の恥さらしとして捕らえられ、最もまずい状況に陥ってしまうかもしれなかった。

どうする。どうすればいい。思考を停止させるな。考えるのだ、必ず突破口はあるはず。……必ず、どこかに……。


その間僅か数秒。瞬時に一つの答えを弾き出したクウォーツは、左右で自分を取り押さえている男達を振り切ると、
呆気に取られたような表情でヘイムダルを見つめている一人の男に向かって駆け出した。
とにかく誰でもよかった。この男を選んだ理由は、ただ一番近くに立っていた組み敷きやすそうな者だったためだ。

あまりにも咄嗟のことで、誰もが、ヘイムダルまでもが眺めていることだけしかできなかった。
弾みを付けるために左足で地面を蹴り上げる。激痛が走るが、目にも留まらぬ速さでクウォーツは男に飛び掛かる。
悲鳴を上げる間もなく男は押し倒され、麻縄で拘束されながらもクウォーツは身動きが取れぬように圧し掛かった。


「う、うわぁああっ!? たっ、助け……」
「大変だ、悪魔族がスミスさんを襲いやがったぞ!」
「この化け物、早くスミスさんから離れろ!」


圧し掛かられてから数秒遅れて上がる男の悲鳴。その声に我に返った町人達。二人を中心として、人々が遠ざかる。
さすがに武器を構えて椅子から立ち上がったガッシュは、じりじりと距離を詰めながら口を開いた。

「おい、こんな状況で一体どうするっていうんだヴァンパイア様よ。何をやっても、もうお前に逃げ道はねぇんだ」
「……」
「大人しく捕まってくれる約束だろぉ? オレもあまり手荒なことはしたくねぇんだって」

「動くな、人間ども」

絶対零度の凍り付いた声。唇の端を歪め、クウォーツは視線だけで周囲を牽制する。
今は余計なことを考えている時間はない。……ただ皆が求めている『悪魔族』の姿を最後まで演じ切ればいいのだ。
淫靡で狡猾で、人の心を狂わせ、破滅に導こうとする存在でなければならない。……とても簡単なことだった。

ティエル達と出会う前。ハイブルグで過ごしていた頃は、ギョロイアの望むまま彼はそういう悪魔族であり続けた。
彼の意志とは裏腹に、人間は次から次へと目の前に現れた。気が付けば彼らは自ら破滅の道を選んでは消えていく。
そんな毎日の繰り返しを跡形もなく壊して手を引いてくれたのは……それもまた、人間であった。


「この男の命が惜しくば全員動くな。そこの大男、貴様も例外ではない」
「クウォーツさん」
「聞こえないのか。動くなと言っている」

目の前の光景が信じられぬかのように、ヘイムダルは僅かな恐れもなく一歩ずつクウォーツへと歩み寄って行った。

「クウォーツさん……どうかその人だけはやめてください。スミスさんには、数えきれないほどの恩があるんです」
「……」
「母に捨てられ、父を亡くしたオレに……唯一声を掛けてくれて、世話をしてくれた人なんです。お願いですから」


ヘイムダルの純粋な黒い瞳が、じっとクウォーツを見つめている。
どうしてこんなことをするのか。どうして約束を破って家から出て行ったのか。そんな戸惑いが隠しきれていない。
静かに歩み寄ってくるヘイムダルから瞳を逸らさぬまま、クウォーツはスミスと呼ばれた男を強く床に押し付ける。

どうやらスミスは恐怖のあまり既に気を失っているようで、押し殺したような呻きが口から洩れるだけであったが。


「手を握っていてくれるという約束も破って、こんな酷いことをするなんて……オレは、もうあんたが分からない」
「何を勘違いしている。そもそも私は、身を隠すために貴様を利用していただけのこと」
「……え?」
「好きな相手? 一生側にいろ? 馬鹿じゃないか。少し優しくしただけで、愛に飢えたやつはすぐに惚れてくる」


ヘイムダルにしか聞こえぬように、声のトーンを落として言葉を発する。周囲が騒がしいことが好都合であった。
徐々にヘイムダルの顔色が蒼白になっていく。ぶるぶると小刻みに震え、目を見開いたまま唇を噛みしめていた。
初めて出会った頃も、彼はこんな瞳をしていたことを思い出す。
町の人々から奇形と蔑まれ、誰一人として目を合わせてくれなくて。それでも毎日精一杯生きてきた彼の瞳だった。

感情が欠落していることは、なんて便利なことだろうとクウォーツは思う。
こんな台詞を口に出していても心が痛まない。そして心すら痛まず言ってしまったことが……少し虚しいと思った。


「クウォーツさん。あんたはずっとそうやって、陰でオレを笑っていたんですか」
「ああ……そういえば。貴様は私の名を呟きながら何度か自慰をしていたこともあったな。ちっ、気色悪いんだよ」
「!!」

「毎晩どんな姿の私を妄想していた? 側にいてくれるだけでいいと口では綺麗事を並べていても、所詮は肉欲か」
「……だ、まれ……」
「私を手に入れられるとでも本気で思ったか? だが貴様の役目も今日で終わりだ、もう用無しなんだよ」

「うわああぁぁぁっ、黙れ……黙れぇっ!!」

まるで獣の咆哮するような声であった。ぼろぼろと涙を溢れさせたヘイムダルは、クウォーツに掴みかかったのだ。
乱暴に胸倉を掴まれ、呆気ないほど簡単にスミスから引き離される。


「悪魔だ……あんたは、本当に恐ろしい悪魔だ……!」

両手を拘束されているクウォーツが受け身を取れるはずもなく、ヘイムダルの怪力でそのまま床に叩き付けられた。
背中に走る痛み。圧し掛かられて身動きが全く取れない。見上げると泣きながら右手を振り上げるヘイムダルの姿。

……殴られる。

疾うに予想していた行動ではあるが、それでも避けることができない状態ではさすがに覚悟が必要であった。
だがヘイムダルの振り上げた拳は振り下ろされることがないまま、代わりに大粒の涙がぼたぼたと降り注いでくる。
行き場を失った拳が力なく震えているようだった。


「……どうしてなんでしょうね。あんたはこんなにも酷い人なのに、オレはまだ……あんたのことが好きなんです」
「ヘイムダル」
「あんたにとってオレはどうでもいい存在だったんでしょうけど……オレにとってあんたは、一番大切な人だった」

「……」
「確かに毎晩あんたを抱く妄想くらいはしていましたよ。けれど、本当に大切にしていたことだけは信じてほしい」


そのヘイムダルの姿は。
町人達の目から見ると、泣くほど恐ろしい思いをしながらも恩人であるスミスを守るために戦う姿に見えたのだ。
ヘイムダルが折角作ってくれた状況を無駄にするわけにはいかないと、力に自信のある町人達が一斉に駆け寄った。

「よくやったぞ、ヘイムダル。そのまま悪魔を床に押さえ付けておくんだ!」

「今のうちにスミスさんを助けるんだ!」
「大丈夫かスミスさん!? ……よかった、気を失っているだけだな」
「この化け物を早く地下牢に連れていけ!」


瞬く間に町人によって二人は引き離され、クウォーツの姿は半ば乱暴に引きずられるようにして地下の扉に消えた。
扉の向こうから殴り付けるような音や、クウォーツにしては珍しく汚い言葉遣いをした彼の恨み言が響いてきた。
その声をぼんやりとした表情で耳にしていたヘイムダルは、もう聞きたくはないと首を振って己の耳を塞いだのだ。

これ以上クウォーツの声を聞いていたくはなかった。……やはり、彼は悪魔だ。人の心を弄ぶ恐ろしい悪魔だった。
あれほど汚い恨み言を口に出すなど、普段のクウォーツらしからぬ態度だったことすらも考える余裕もなかった。
ただ最初から裏切られていた事実だけが頭の中を支配する。

その時。震えながら両耳を塞いでいたヘイムダルの肩を優しく叩く者がいた。
振り返ると見知った顔の町人達が親しみを込めた眼差しで彼に笑いかけていたのだ。信じられないような光景だ。


「……ありがとう、ヘイムダル。お前の勇気のお陰で助かったよ。悪魔族に向かっていくのはさぞ怖かっただろう」
「お前がいなかったら今頃どうなっていたか。スミスさんの命もお前が助けてくれたんだ」
「ドーソンさん……ポルタさん」

皆がヘイムダルの周囲に集い、口々に感謝の言葉を述べていく。皆真っ直ぐにヘイムダルの目を見つめてくれる。
町の人々からこんなに優しい言葉を掛けられたことなんて今までなかった。心から待ち望んでいた光景なのに。
それなのに、ヘイムダルは素直に喜ぶことができなかった。涙が溢れて止まらないのだ。

まるで心にぽっかりと大きな穴が開いたようであった。許せないのか、悲しいのか。最早自分でも分からなかった。
恋心を利用されたのだ。悪魔族が最も得意としていることだろう。何故、欠片もクウォーツを疑わなかったのか。
怪我を負った弱々しい姿を目にしていたためなのか。ああ、でも、彼の硝子の瞳はいつだって嘘がなかったはずだ。

……もう何を信じればいいのか分からない。できれば二度と、クウォーツの姿を目にすることがないように願った。





+ Back or Next +