Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart

第65話 Melodies of Heart -5-




「それにしても、ヘイムダルがあんなに勇気があるやつとは思わなかったよ」
「悪魔ハンターさんと協力して、今まで悪魔族を家に足止めしてくれていたんだってな。……本当にありがとう」
「そうならそうと早く言ってくれればオレ達も協力したのになぁ。お前は町の英雄だよ」

悪夢のように長く感じた教会での裁判は、地下牢へと乱暴に引きずられていくクウォーツの呪いの声で幕を閉じた。
扉の向こうでは恐らく一方的な暴行が繰り広げられているだろう。処刑は明日の夜。彼は町の広場で火炙りになる。
数名の見張りを残し、神父の声で解散が告げられる。教会に集っていた人々は、安心した様子で帰路に就き始めた。


どこかぼんやりとした表情で床に座り込んでいたヘイムダルに手を差し伸べてくれたのは、スミスの姿であった。
彼は襲われた恐怖で気を失っていたが、先程目を覚ましたようだ。見たところ怪我は負っていないようである。
クウォーツとの会話は誰一人として聞いていない。意に反して、いつの間にかヘイムダルは町の英雄となっていた。

人々が感謝の言葉を述べていたが、彼は全て上の空で聞いていた。昔からずっと望み続けてきた優しい言葉なのに。
だがヘイムダルは全てが虚しく感じられたのだ。町の人々の言葉よりも、クウォーツの裏切りの衝撃が勝っていた。
確かに恩人のスミスは大切な存在だけれど、それ以上にクウォーツを大切に思っていたのだ。

……とにかく、今はもう全てがどうでもいい。早く一人になりたかった。一人になって、思い切り泣きたかった。


土砂崩れの際に負った傷が今頃になってずきずきと痛み始める。先程までは痛みを感じる余裕などはなかったのだ。
両肩を町の男達に支えられながら、ヘイムダルは己の家に向かっていた。
彼の家を取り囲んでいる鬱蒼とした林は随分と湿っているようだ。ぬかるんだ道に足を取られぬように歩いていく。

土には大勢の足跡が今でも残っていた。ヘイムダルが眠っていた間に、大勢の町人達が家に押し掛けたのだろう。
それと、何か大きなものを引きずるような跡が残っている。重さに耐えきれなくて、何度も地面に手を付いていた。
平均的な男性の手のサイズだった。特に大きくも小さくもない。……ただ、彼は繊細な女のような指をしていた。

クウォーツの痕跡をこれ以上目にしていたくはない。唇をぐっと噛みしめ、ヘイムダルは無理矢理視線を逸らした。
できれば再び雨が降り、この痕跡を跡形もなく洗い流してくれればいいと思う。


「ありがとうございました。ここでもう大丈夫です」

家の前まで辿り着いたヘイムダルは、ここまで肩を貸してくれた町人達に向かって頭を下げる。
金物屋のギルツに靴屋のトミーだ。二人ともヘイムダルには敵わないが、筋骨逞しい体格で力自慢の者達であった。


「スミスさんにお大事に、とお伝えください。申し訳ないですが……明日の仕事はお休みをさせてほしいんです」

「お前らしいなぁ、自分よりもスミスの心配か。ヘイムダル、今は自分の怪我を治すことだけを考えるんだ」
「スミスさんはワトスンさんが家まで付き添っているよ。怪我をしている様子はなかったし、あの人は大丈夫だよ」
「そうですか……。よかった」

ほっと胸を撫で下ろすヘイムダル。悪魔族の恐怖から解放されたためか、ギルツとトミーの表情は随分と明るい。


「あの悪魔族は明日の夜に火炙りになるんだってよ。見物客で町の広場がごった返しそうだなぁ」
「勿論オレも見に行くぜ! 町を恐怖に陥れた化け物の、惨めな最期を目に焼き付けてやる。本当にいい気味だよ」
「そう……ですね」

「それじゃあヘイムダル。また明日、差し入れでも持って様子を見に来るからさ。今夜はゆっくりと休むんだぞ?」
「はい。ありがとうございます」


今まで見せたこともないような親しげな笑顔を浮かべながら、町人達はヘイムダルに背を向けると歩き始めた。
暫くの間、彼らの後ろ姿を虚ろな瞳で見つめていたが。やがて肩を落として俯くと、ゆっくりと扉のノブを引いた。
扉を開けると内側のノブに引っ掛けていた鳴り物の乾いた音がしんと静まり返った無人の家にからからと鳴り響く。

……誰もいない。
誰もいなかった。待っていてくれる者がいない暗い家に帰ることなんて、もうすっかり慣れていたはずだったのに。
明かりの灯っていない家に帰ることが、誰もいない家に帰ることがこんなにも辛いことだとは思わなかった。

のろのろとした手付きでリビングルームの明かりを灯す。
ふと視線をテーブルの上に向けると、すっかり冷め切ってしまっている飲みかけのティーカップが置いてあった。
クウォーツがよく使用していたティーカップである。彼は少々変わった銘柄の紅茶を好んでいたことを思い出す。

まだ雨が降る前にヘイムダルが彼のために淹れた紅茶である。そんなつい先程の出来事が随分と昔に思えてしまう。


明日の夜には全てが終わる。
自分を騙し続けていた恐ろしい魔物のような男は灰になるまで火に焼かれ、人々は再び平和な日常を取り戻すのだ。
……いや、もうあの頃と全く同じような日常に戻れるとは思えなかった。

誰かを好きになるということは、こんなにも辛くて苦しくて幸せなことだったのだとヘイムダルは知ってしまった。
クウォーツにとっては偽りの日々でも、ヘイムダルにとっては本物の日々だった。
向かいの席にぽつんと置かれている古びたティーカップを、彼は唇を噛みしめながらいつまでも見つめ続けていた。







……さて、これからどうしたものか。
冷たい石壁の地下牢に相応しい、薄汚れた簡易なベッドの上に浅く腰掛けていたクウォーツは閉じていた目を開く。
小さな町のために独房が四つほどの地下牢だ。どうやら先客はおらず埃の様子から長らく使われていないのだろう。

見張りは一人。そして恐らく階段を上がった先に三人程度。凶悪な悪魔族の見張りの数にしては随分と少なかった。
鉄格子を信頼しきっているのか。軽く見られたものだと言いたい気持ちもあったが、見張りは少ない方が好都合だ。

大きな松明が数ヶ所に掲げられており、牢の中は明るい。むしろ明るすぎるくらいである。
彼が僅かに怪しい素振りを見せれば直ぐに取り押さえるつもりなのだろう。牢の鍵を開けさせればこちらのものだ。
処刑は明日の夜。火炙りになるのだという。冗談じゃない。わざわざ苦しめるためだけに作られた処刑方法だった。

どんな手を使ってでも生き延びる。それが、他人の目から見ればとても惨めに見えるような生き延び方であっても。


生きるものならば、誰しも幸せになりたいと願うはず。幸せになるために足掻こうと努力をするはずなのだ。
だが彼の生き方は幸せになろうとする前に全てを諦めているように見えるのだと。そう誰かに言われたことがある。
確かにそうだったのかもしれない。生に対して、いつしか興味がなくなっていたのだ。生き人形と成り果てていた。

けれど、今は違う。生きたいと思う。生き続けたいと思う。

無感情な人形であることを否定してくれた者達がいる。もっと知りたいと、仲間なのだと言ってくれた者達がいる。
誰もが距離を置くクウォーツに対して、半ば無遠慮なほど手を引いてくれた人間達がいた。
それがあまりにも珍しくて、ちょっとした気まぐれを起こしたのかもしれない。理由はきっと……それだけだった。


「……会いたい……」


無意識のうちにそう考えてから、そこで初めてクウォーツはその台詞を声に出してしまっていたことに気が付いた。
彼の呟きを耳にした見張りの男がこちらに顔を向けてくる。机の上には棍棒と鍵の束。
階段上の見張りに気付かれぬように、この男に牢の鍵を開けさせねばならない。たとえどんな手を使ってでも。


「ん、何か言ったか? 言っておくが変な真似はするなよ。どちらにしても絶対にお前は逃げられないんだからな」
「……」
「まぁ、実を言うとほんの少しだけ同情はするけどなぁ。お前、悪魔族ってだけで別に何もやっちゃいないんだし」

「そう思っているのならば鍵を開けろ」
「さすがにそりゃあできないぜ! オレにも守るべき妻と息子がいるからな。教会に逆らう訳にはいかないんだよ」
「そうか」
「お前さんにも大切な存在がいるんだろうな。もしも上手く生き延びることができたら、必ず会いに行ってやれよ」

『会いたい』という先程の呟きは、どうやらこの男にしっかりと聞かれていたようだ。
その時。石階段を下りてくる音が鳴り響き、松明の炎に照らし出されたのは悪魔ハンター、ガッシュの姿であった。
ガッシュの姿を目にするなり雑談をしていた男は背筋を伸ばして椅子から立ち上がり、慌てて愛想笑いを浮かべる。


「ガッシュさんじゃないですか! 見回りご苦労様です。こちらは全く異常ありませんよ」
「会話が聞こえてきたが……この悪魔族に絆されちゃいねぇだろうな? こいつは弱い姿を見せて同情を誘うんだ」
「は、ははは。そんな訳ないじゃないですか……。ただ、ちょっとだけ、火炙りまでするのは可哀想かなと……」

「……やっぱりお前もそう思うだろう? 確かに火炙りにしちまうのは納得いかねぇよなぁ?」
「ガッシュさんも教会の処罰には疑問を持っていたんですね! だってこいつ、別に何もしちゃいなか……っ!?」

にやにやと笑みを浮かべつつ歩み寄ってくるガッシュに、全く警戒心も持たずに声を掛ける見張りの男だったが。
突如ガッシュに首筋を斬り付けられ、大量の血を噴き出した男は声を上げる間もなく床に崩れ落ちてしまったのだ。
頸動脈もろとも首の骨まで切断されている。恐らく見張りの男は即死だろう。


「そう、やっぱり教会の処罰には納得がいかねぇ。火炙りにしちまったら、こいつを抱けなくなっちまうだろぉ?」

倒れた男の死体を乱暴に蹴り転がしたガッシュは、鍵の束を掌の上で軽く放り投げながら牢の前へ歩み寄ってくる。
カビに塗れたベッドに腰掛けたクウォーツは身動ぎすらしない。相手が牢の鍵を開け、隙を見せるのを待つのだ。
この悪魔ハンターは熟練であるがゆえに少々厄介だ。拘束されている今の状態では、はっきり言って勝ち目がない。


「こんなすげぇ上玉を灰にしちまうのは馬鹿のやることだ。賞金なんざもういらねぇ。お前を連れてこの町を出る」
「……一人でシコってろよ、クソ野郎」
「おいおい、綺麗な顔でそんな台詞を言うもんじゃねぇよ。跳ねっ返りであればあるほど屈服させたくなるけどな」

牢の鍵を開けたガッシュは、クウォーツとの距離を徐々に詰めていく。一歩ずつ、じりじりと。慎重に。


「見張りは全て殺したのか。貴様もギルドに追われるようになるぞ」
「そんなへまはしねぇよ。全てお前が殺したように見せかけるために、首筋を引き裂いて殺してやったからなぁ」
「……」

「筋書きはこうだ。お前に言葉巧みに騙された牢番が鍵を開けちまい、お前は見張りを全て殺して町から逃亡した。
 悪魔ハンターと協力していたヘイムダルという醜男も、お前は腹いせに惨殺して逃亡……どうだ、面白いだろ?」

「あいつを殺したのか」
「奇形の不細工が、涙と小便漏らしながら命乞いをする姿は惨めで滑稽だよなぁ。へへへ、お前にも見せてやるよ」

「今分かった。感情が欠落している私にも、ただ一つだけはっきりしていることがあるのだと」
「あぁん?」
「……私の前から今すぐに消え失せろ、ゲスめ!!」


視線をガッシュから逸らさぬまま、クウォーツは瞬時に右足を踏み出した。狙いは足元に転がっていた小石である。
蹴り飛ばされた石はガッシュの顔面で砕け散り、痛みに思わず怯んだ彼の横を駆け抜ける。牢の扉は開いたままだ。
だが。扉まであと数歩だというところで、ガッシュの腕で足首を掴まれて引き摺り倒されてしまった。

背後で拘束されているために防御すらもできない。石の床にしこたま胸を打ち付け、衝撃で一瞬だけ呼吸が止まる。
あの古城の夜のように、クウォーツに馬乗りになったガッシュは彼の青い髪を鷲掴みながら笑みを浮かべた。


「やってくれるじゃねぇか。跳ねっ返りってのも限度があるだろ、女王様よぉ?」
「……」
「だがどんな跳ねっ返りでも、一発ヤっちまえば大人しくなるもんだ。牢の中で犯すってのもなかなか興奮するぜ」

「そんなにやりたきゃ勝手にやってろ。……けれど、その程度で私を屈服させたと思うなよ……!」


その言葉がガッシュの加虐心を更に煽ってしまう。口を下卑た形に歪ませ、クウォーツの衣服に乱暴に手を掛けた。
今更、性行為を強いられることに対しては何も思わない。……ただの粘膜を擦り合うだけのつまらない行為だ。
しかしクウォーツは気付いていなかったのだ。その行為を重ねる度に、ほんの少しずつ心が壊れ始めていたことを。


欲に溺れた荒い息を吹きかけてくるガッシュから目を逸らし、クウォーツは赤く燃える松明をぼんやりと見つめる。

奪われる側から奪う側に回るために強くなろうと決めたはずだった。それなのに、一人とはなんて無力なのだろう。
それとも、一人でいることの無力さを知ってしまったから弱くなったのか。果たしてそんなことがあるのだろうか。
……そこまで考えて、彼は思考を止めた。感情がぽっかりと抜け落ちている心で答えが見つかるはずがないのだ。

そんな焦点の合っていないクウォーツの薄青の瞳に、不意にどこかで見たような大きな人影が映った。





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