Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第6章 Melodies of Heart
第66話 Melodies of Heart -6-
松明の炎の前に重なった大きな影。
逆光のために容貌までは見えないが、猫背気味の巨大な輪郭からクウォーツには一目で誰なのか分かってしまった。
ヘイムダルだ。まだ殺されてはいなかったのだ。牢の前で立ち止まったまま、呆然とこちらを見つめているようだ。
「ん? ……お前はあのヘイムダルとかいう奇形の不細工じゃねぇか。こんなところに今更何の用で来たんだよ?」
クウォーツの瞳が一点を見つめたまま固まったように動かないことを不審に思い、顔を上げたガッシュが口を開く。
彼の声にびくりと巨体を震わせたヘイムダルは暫く迷っている様子だったが、一歩ずつゆっくりと歩み寄ってくる。
周囲にいくつも設置された大きな松明のために、牢の中で一体何が起きているのか誰が見ても明らかであった。
首筋を鋭利な刃物で切り裂かれて大量の血を流して死んでいる町人の姿。上の階でも何名か同じように死んでいた。
開け放たれている牢の扉。衣服を乱されたクウォーツと、スラックスを下ろした格好で彼に被さる悪魔ハンター。
ヘイムダルは震える足をまた一歩踏み出した。握りしめた拳から血が滴る。あまりの怒りに震えが止まらなかった。
「あんた……クウォーツさんに一体何をしているんだ」
「何って、見りゃあ分かるだろ? お仕置き中だよ。それにしてもこいつ、本当に脱がしにくい服を着てやがるな」
「クウォーツさん、どうしてそいつに抵抗をしないんですか。それじゃあ本当に……人形みたいですよ」
ガッシュの言葉をヘイムダルは否定をするように頭を振り、無気力な様子で寝転んでいるクウォーツへ顔を向ける。
全く抵抗する素振りすら見せずに虚ろな瞳のまま。だがクウォーツもこの状況を受け入れているわけではなかった。
抵抗をすれば余計な傷が増えるだけである。相手が僅かな隙を見せるまで、彼は反撃の機会を常に窺っていたのだ。
「……ねえ、クウォーツさん。どうして何も言わないんですか。どうして何も言ってくれないんですか。どうして」
「へへへ。不細工、お前は用済みだってよ。残念だったなぁ、こいつはもうオレのものだ。分かったら早く消えな」
それでも沈黙を貫いているクウォーツの様子を満足そうに眺めたガッシュは、片手をひらひらと振って見せる。
ヘイムダルが現れても、ガッシュにとって状況が何も変わることはない。むしろ殺しに行く手間が省けたといえる。
元々この醜男は殺すつもりだった。こんな奇形の不細工が自分の協力者だと思われたままでいるのも気に食わない。
そうだ。犯す場面を見せ付けてからこの醜男を殺してやろう。絶望に打ちひしがれた顔は誰であっても滑稽だった。
下卑た笑みを口元に残したまま、ガッシュはヘイムダルから視線を外した。……その瞬間。
「もうたくさんだ、これ以上クウォーツさんに触れるな!!」
吠えるような叫び声を上げたヘイムダルは、その巨大な身体からは想像もつかぬほどの速さで突っ込んできたのだ。
気弱そうに見える彼がそんな行動を起こすとは思わなかったガッシュは、呆気に取られた顔のまま殴り飛ばされる。
牢の石壁に顔面を打ち付け、スラックスを半分ほど下ろした格好でぴくぴくと暫く痙攣を続けていた。
ヘイムダルはその隙にクウォーツを優しく抱え起こし、乱れた衣服を整えてやる。
先程ガッシュが呟いていたように、確かにクウォーツの衣服はしっかりと着込んでいるために非常に脱がせにくい。
「大丈夫ですか? すみません、助けに来るのが遅くなって。あいつ……クウォーツさんにとても酷いことを」
「……大丈夫だ。まだ何もされていない。どうせ行為の最中は相手の隙も増えるだろうし、助けなど必要なかった」
「そういうことを言うのは……もうやめて下さい。あんたはもっと、自分の身体を大切にした方がいい」
「?」
意味が分からなかった。自分を大切にしているからこそ、生き抜くために相手の隙を窺っているというのに。
ぱちりと薄青の瞳を瞬いているクウォーツの様子から、ヘイムダルの言葉の真意は恐らく伝わってはいないだろう。
溜息をつきながら背後に回ると、クウォーツの両手を拘束している麻縄を短刀で切りつける。なかなか頑丈な縄だ。
「そもそも何故ここへ来た。私は貴様を利用していただけだと言っただろう」
「ははは、言ってましたね」
「笑いごとか」
「オレが好きなのはそういうところなんですよ。あんた、いつでも真剣にオレと向き合ってくれているんですよね」
「? 本当に意味が分からない」
「確かにクウォーツさんはオレを利用していたんでしょうけど……過ごした日々に、嘘はなかったと思っています」
「……」
「ねぇクウォーツさん、それが人を愛するってことなんですよ。好きな人を信じなくて、他に誰を信じるんですか」
満面の笑顔だった。出会った頃のいじけた性格のヘイムダルからは考えられないような、とても眩しい笑顔である。
その背後でふらふらと立ち上がり、こちらを憎悪に燃えた瞳で睨み付けるガッシュの姿をクウォーツは目にした。
ガッシュの手には何十人もの悪魔族、そして見張りをしていた町人達の血を吸った古びた大剣が握られていたのだ。
クウォーツの美貌に目が眩んだことによって『人生を狂わされた者』は数多く存在する。
ある者は財産を全て失い、ある者は自害し、またある者は犯罪に手を染めた。彼の美しさは多くの者達を狂わせた。
それが不幸事を呼び寄せる忌み子と呼ばれる所以であり、彼の意志とは裏腹に周囲で人が死んでいく理由の一つだ。
皆が皆、クウォーツを手に入れようとして自ら破滅の道を歩んでいく。そしてガッシュもそのうちの一人であった。
彼の周囲に集う者は皆理性を狂わせる。ただ……稀に、彼に好意を持ちながらも破滅の道を歩まない者も存在した。
それがティエルやジハード達であり、ヘイムダルだったのだ。
「よくもやりやがったな……こいつはオレのものだって言っているだろ。この醜い奇形の化け物が、死ね!!」
ガッシュの狙いは背を向けているヘイムダルであった。鈍く光を放つ大剣が、勢いよく彼に振り下ろされたのだ。
クウォーツの両手を拘束していた麻縄はヘイムダルの短刀によって殆ど千切れかけていた。
その瞬間。彼は持てる力を振り絞って縄を勢いよく引き千切ると、目にも留まらぬ速さでガッシュに飛び掛かった。
「……私と出会ったことを、地獄で後悔しろ!」
クウォーツの左手に赤い霧が集い、瞬時に剣の形を作り上げた。ほんの一瞬の出来事であった。
背後から凄まじい殺気を感じたヘイムダルが慌てて振り返ると同時に、ガッシュの首があっさりと斬り落とされる。
飛ばされた首は牢の石壁に跳ね返ると、ごろごろと転がっていった。夥しい量の鮮血が断面から噴き上がっている。
床に倒れた身体は暫く痙攣を続けていたが、やがて動かなくなる。何が起こったのか理解する前に死んだのだろう。
血に濡れた剣を何度か振ってから鞘に納めたクウォーツは、ぴくりとも動かないガッシュの死体を蹴り転がした。
白銀の矢で射られた上に、散々付き纏ってくれた厄介な悪魔ハンターであった。随分と手こずらせてくれた。
その割には簡単に殺しすぎたか、とクウォーツが小首を傾げた時。こちらを見つめるヘイムダルの視線に気付いた。
「クウォーツさん」
「これで理解しただろう。貴様は悪魔ハンターから私を守るなどと言っていたが、守ってもらわなくとも私は強い」
「……そうみたいですね。オレなんて全く必要ないくらいに強かったんだ」
「私はこのまま町を出る。見張りも私が殺したことにしておけ。貴様は何事もなかったかのように家に戻ればいい」
「それじゃあ、あんたはまた別の悪魔ハンターに追われることになってしまいますよ」
「勝手にすればいい。全員返り討ちにしてやるだけだ」
「ははは。あんたって見た目だけなら壊れそうなほど儚い人なのに、中身は本当に気が強い女王様なんですから」
「私は女ではない」
「でも、王様というより女王様の方があんたにはしっくりくるんですよね」
「……」
返事はせずにクウォーツはヘイムダルに背を向けると地下牢の階段を上がっていく。
ガッシュが言ったとおりに、何名かの見張りが首筋を斬り裂かれて殺されているようだ。皆ガッシュの仕業である。
首筋を斬り裂く殺し方は確かに悪魔族の殺し方だ。この死体を見れば、誰もがクウォーツの仕業だと思うだろう。
これだけの騒ぎが起こっても誰一人駆け付けてこなかったのは、見張りが全員殺されていたためだ。
己の行動が最終的に裏目に出てしまうなんて、欲に目が眩んだガッシュには恐らく想像もつかなかったのだろう。
教会の中に人の姿はない。注意深く裏口から外に出ると深夜の町は静まり返り、ひんやりとした風が心地よかった。
ヘイムダルが地下牢に来たことはガッシュだけが知っている。その彼も今は物言わぬ屍と成り果てている。
明日を迎えればヘイムダルには今までどおり、いや、必死に町を守ろうとした英雄として明るい毎日が待っている。
「貴様は早く家に戻れ。私と一緒にいるところを見られでもしたら、折角手に入れた幸せを手放すことになる」
「……あんたのいない毎日は、果たして幸せと言えるんでしょうか」
「幸せだろう」
「それはクウォーツさんが決めることじゃない。許されるなら、あんたの旅についていきたい。側にいたいんです」
「貴様の居場所は、私の側ではなくこの町だ。育てた野菜を皆が食ってくれることが幸せだと言っていただろう」
「言い……ましたよ」
「私の側にいれば必ず不幸事に巻き込まれるだろう。匿ってくれたことに対しては感謝している。……元気でな」
「クウォーツさん!」
背を向けて歩き始めたクウォーツの姿を見つめていたヘイムダルだが、彼の腕を引き寄せると強く抱きしめたのだ。
本当はどこにも行ってほしくはなかった。名残を惜しむかのように、ヘイムダルは力強く温かい腕で彼を包み込む。
華奢な身体は力を込めると壊れてしまいそうに儚く見えるが、クウォーツの心は誰にも折れないのだと知っている。
「……少しだけ、少しの間だけでいい。抱きしめていてもいいですか」
「抱きしめてから言うな」
「ははは、すみません。……さよなら、初めてオレを見てくれた人。初めてオレが……側にいてほしいと思った人」
別れの時まで泣いている姿を見せたくなかったが、気持ちとは裏腹にヘイムダルの瞳から涙が溢れ出した。
そんな彼の行動を拒みもせず受け入れもせずに表情もなく立っていたクウォーツは、やがて静かに両手を伸ばした。
……そっと、触れるだけの口付けだった。
重ねられた唇に、勿論燃え上がるような熱情は存在しない。ゆっくりとヘイムダルから身を離すと彼は歩き始める。
夜空に輝く満月は彼の進んでいく道をぼんやりと照らしており、淡い光に青い髪が艶やかに煌いているようだった。
「さよなら……初めてオレが、好きになった……ひと」
クウォーツの後ろ姿が闇に溶け込み完全に見えなくなっても、ヘイムダルはその場から立ち去ろうとはしなかった。
顔を上げてしっかりと前を向いたまま、彼はいつまでも見つめ続けていた。
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