Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第7章 姫君は遥かなる大地を征く

第67話 外壁庭園 -白い浜辺にて-




まるで母の腕に抱かれているような心地の良い感覚がする。
温かな母親の記憶など覚えているはずはなかったが、きっとこのように優しい腕で抱いてくれたのだろうと思った。
五感がはっきりとしない。何も見えず、何も聞こえない。この優しい感覚以外全てがぼんやりと遠くに感じられる。

これが夢の世界ならば、なんて穏やかな夢なのだろう。少しだけ……あと少しだけ、この時間に身を委ねていたい。
だが、そんな願いとは裏腹に感覚が徐々に戻ってきたようだ。太陽の匂い。どこか遠くで静かな波の音が聞こえる。
そろそろ時間が来てしまった。早く目覚めなければならない。

目を開ければメドフォード王国の自室のベッドの上だろう。侍女のエレナが優しい声で起こしてくれる。
身だしなみが終われば待ちに待った朝食だ。大好きなハムエッグに焼き立てのパン。少々マニアックな銘柄の紅茶。
向かいに座っているジハードが得意気に話すのだ。『今度の研究は本当に凄いんだよ』と。彼の話はいつも楽しい。

楽しい朝食の時間が終われば朝一番の授業が始まる。今日は礼儀作法の授業だろうか、それとも歴史の授業か。
どちらにしてもティエルは勉強が苦手であった。身体を動かす授業は残念ながら姫君には必要がないと言われた。
剣術の授業ならば、たとえ一日中でも喜んで受けるのに……と言えば、トーマ大臣の長いお説教が始まってしまう。

夢と現実の区別が付かぬまま、ティエルはゆっくりと目を開けていく。


……白い浜辺。
見渡す限りの白い浜辺。重い瞼を開けたティエルの視界に飛び込んできた光景は、一言で現すとそんな世界だった。
きらきらと輝く透き通った海に、純白の砂浜。青々と茂った草木。どうやら波打ち際に打ち上げられていたようだ。
まるで人肌のような温もりの海水は何故か塩辛くはなく、塩分がない。湧き水のように喉を潤してくれる。

身体を起こし、ティエルは周囲を見渡してみる。遥か水平線の向こうまで、人影どころか船の影すらなかった。
聞こえてくるのは波の音ばかり。背後には光の差し込む美しい森林が広がっており、彼女を誘っているようだ。
持てる力を振り絞って立ち上がる。頬に付着した砂を払い、その時、左腕付近の服が裂けていることに気が付いた。

リアンが放った魔法で切られたことを思い出す。だが、そこには負ったはずの傷が跡形もなく消え失せていたのだ。
傷が無くなっているどころか、疲労はすっかりと消えて身体が随分と軽い。どこかふわふわとした穏やかな感覚だ。

この場所は、もしかして……天国なのではないだろうか。本当に今自分は生きているのだろうか?
途端に恐ろしい考えが脳裏をじわじわと支配していく。周囲をもう一度見回すと、まるで楽園のような光景である。
幻想的で、非現実的な世界。生きる者の気配が全く感じられない世界だった。天国だと言われれば納得してしまう。

輝く海には島すら見当たらず、背後の森からは鳥の鳴き声すらも聞こえてはこない。
失敗作の簡易ワープゲートだとリアンは言っていた。失敗作とは、死後の世界に飛ばされてしまう理由だったのか。


「わたし……死んじゃったのかな」


途端に酷く寒気を感じた。こんなにも優しくて温かな世界であるのに、とてつもなく恐ろしい世界に感じ始める。
まだ死にたくない。やり残したことがあまりにも多すぎる。こんな、何もかもが中途半端のまま死んでたまるか。
その時。白い浜辺で一人立ち尽くすティエルの耳に、微かな歌声が聞こえてきた。聞いたこともないような旋律だ。

この幻想的な世界に相応しい、穏やかで懐かしい歌声。子守歌のようだと思った。
それよりも誰かがいるという安心感の方が遥かに大きい。森の中に確実に誰かがいるのだ。ティエル以外の誰かが。

思わず安堵の溜息をついたティエルは歌声を目指して砂浜を駆け出した。砂に足を取られて思うように進めない。
幸いにも歌声は途切れることはなく、まるでティエルに聞かせているかのように辺りに響き続けているようだ。
歌声は森の奥から聞こえてくる。青々とした葉が太陽の光を受けて輝いており、この世の楽園なのかと錯覚させる。


周囲は静けさに包まれ、微かに響く歌声だけが頼りであった。
これほど緑豊かで明るい森ならば、絶えず鳥のさえずりが響いていてもおかしくはない。虫すら見当たらなかった。
もしも天国という場所が存在しているのであれば、恐らくこんな光景なのだろう。だが、天国にまだ用はないのだ。

草を踏みしめる感覚は確かに本物だ。現実のように感じられる。五感もしっかりとしている。
自分はまだ生きているのだと、ティエルは何度も言い聞かせる。そうでなければ不安に押し潰されてしまいそうだ。


歌声が、すぐ側から聞こえてきた。迷いもなくずんずんと進んでいたティエルだが、ほんの少しだけ躊躇する。
恐る恐る茂みをかき分けていくと……古びた教会があった。白い外壁には所々緑の苔が付着し、塗装も剥げている。
雨風に曝されて随分とくすんだ色の十字架が、それでも神の存在を誇示しているかのように屋根の上で輝いていた。

歌声がぴたりと止まった。教会の前には、こちらに顔を向けて座っている黒い髪をした女の姿。
女は少しの間だけ驚いたように瞳を丸くしていたが、やがて穢れのない童女を思わせるような微笑みを浮かべた。
長い黒髪。白くひらひらとしたローブ。小動物を連想させる黒目がちな瞳に、幼げで、庇護欲を抱かせる女である。


「……ロイア……?」

予想もしていなかった人物の姿にティエルは暫くの間呆然と突っ立っていたが、我に返るとロイアに駆け寄った。
初めて出会った頃と同じく、何事にも動じず無邪気な笑顔を浮かべている彼女の細い両肩を強く掴む。

「おねえさんはロイアでしょう!? ゴールドマインで出会った、あのロイアだよね? わたしのこと覚えてる?」
「はい」
「よかったぁ、覚えていてくれてるんだ!?」
「わたくしはロイアです」

「ここはどこなの? わたしは死んじゃったの!? それより、どうしてロイアがこんな所にいるの……?」
「どうしてでしょう」

ティエルに肩を掴まれながらもロイアは決して狼狽えることはなく、にこにこと彼女の話を聞いていた。
知った顔に出会ったことで心細さが急に押し寄せて来たのか、気付くとティエルはロイアに縋るように訴えていた。


「わたし……みんなのところに帰れるの……?」


そっと優しい手がティエルの背中に触れる。幼い子供をあやすように、ロイアは何度もティエルの背を撫でている。
驚いたティエルがゆっくりと身を離してロイアの顔を覗き込むと、彼女はとても幸せそうに微笑んでいたのだ。
意思表示がなかなか分かりにくいロイアだが、この様子では一応話は伝わっているのかもしれない。確証はないが。

「ようこそ外壁楽園へ。わたくしの大切なお客様」
「外壁楽園?」
「はい」
「それはどこの大陸にあるの!? ねえ、地図とかないかな? シルヴァラース古代図書館にすぐに戻りたいんだ」

「お嬢さーん。そのお姉さんは聞いても無駄みたいですヨ。僕もずっと問い掛けているけど、何も教えてくれない」
「えっ!?」


突然知らない男の声が周囲に響いた。勢いよくティエルが振り返ると、教会の影に一人の男が立っていたのだ。
全く気付かなかった。恐らく彼は先程からずっとこの場にいたのだろう。
年齢は一見すると三十代。まだ青年と言ってもいいほど若く見えるが、もしかしたらもっと年上なのかもしれない。

すらりとした体躯。寝癖をそのままにしているような、癖の強いベビーピンクの髪を三つ編みにして結っている。
尖った耳に赤紫の瞳。美しい顔立ち。悪魔族の気配が全く感じられないことから彼は正真正銘のエルフなのだろう。
柔らかい雰囲気と笑顔の持ち主だが、なんとなく怪しい。それに以前どこかで会ったことがあるような青年だった。


「おにいさんは誰なの? なんでここにいるの?」
「フフフ、そうですねェ。なんでと言われても説明に困りますが。うん、きっと君と似たような状況だと思います」
「怪しいエルフのおにいさんだ……」

「えっ、僕って怪しいですかアァァ!? こんな小さな女の子にそう言われると地味に傷付きますヨ」
「わたしは小さな女の子じゃありませーん。じゃなくて、そんなことよりも早くここがどこか知りたいんだ!」
「だから言ったじゃないですかァ。あの黒髪のお姉さんは、僕が話しかけても全然答えてくれなかったんですヨー」


「ここは外壁楽園ですわ。生と死の狭間の場所。地図には存在しない場所。心の中に迷いを持った者が訪れる場所」

「ほら。ロイアはちゃんと答えてくれてるよ?」
「あれ? おかしいですネー。僕の時は全然答えてくれなかったのに。……それよりも、生と死の狭間ですかァ」

軽やかに、歌を口遊むように。ロイアはあどけない笑顔を浮かべたまま、静かに両手を広げる。
幻想的な森。そして彼女の白い衣装も相俟って、まるで天使のように翼を持って天空へと飛び立ってしまいそうだ。
だがとんでもない内容の台詞であった。地図に載らない生と死の狭間の場所。やはりここは死後の世界だったのか。


「迷い込んでしまったら、永遠に外に出ることは許されない……辛いことを全て忘れることができる楽園ですわ」
「……楽園なんかじゃないよ」
「え?」

この穏やかで美しい森には似つかわしくはないティエルの声に、ロイアはきょとんとした顔で小首を傾げて見せる。
純粋で穢れのないロイアには確かに楽園がよく似合う。だが、ティエルはいつまでもここにいるわけにはいかない。
待っていてくれるひとがいる。会いたいひとがいる。

「みんながいない世界なんて、わたしにとっては全然楽園じゃない。そんな場所で幸せなんかに……なれないよ」


心地の良い日差しに柔らかな風。この森はとても緩やかな時間が過ぎていく。
そんな場所を楽園と呼ぶ者も確かに存在するだろう。しかし、ティエルにとっては全く意味のない場所であった。
大切な仲間がいる場所が、そしてメドフォードが彼女が帰るべき場所であり、ティエルにとっての楽園だったのだ。

「わたしはどうしても帰りたい……!」


絞り出すようなティエルの声が教会前の広場に響き渡る。
ほんの少し驚いたような表情を浮かべていたロイアだったが、やがて彼女の特徴である純粋無垢な笑みを浮かべる。
長く艶のある黒髪が優しい風に揺られ、陽の光を受けて輝いていた。やはり彼女の姿はこの世のものとは思えない。

夢の世界の住人のようで、亡霊のようで。ロイアがいる世界ならば確かに楽園という名に相応しいのかもしれない。


「ティエル様」
「えっ、なに?」
「そんなに急いで、あなたは一体どこへ行くのでしょう。焦らずとも、来るべき時はきっと来るはずです」

「……ロイア」
「時には運命に身を委ねるのもいいでしょう。休息も必要です。でなければ、いつか大切なものを見失ってしまう」
「大切な……もの?」

「ええ、そうですわ。ティエル様、あなたの大切なものは何でしょう?」


ロイアから静かに問い掛けられ、ティエルは思わず目を瞬いた。
大切なもの。それは主にジハードやサキョウ達であり、メドフォードのみんなであって。そして国のことであって。
一つに絞ることなどできなかったのだ。





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