Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第7章 姫君は遥かなる大地を征く
第70話 外壁庭園 -試練の森3-
「けれど待ってて。……必ずリアンに会いに行くから」
その言葉を呟いた時には既にリアンの姿はなかった。先程までと同じくまるで最初から誰もいなかったかのように。
ジハード達の姿をした『何か』が現れた時点で、こうなることは分かっていたはずだ。分かっていたはずなのに。
一歩足を踏み出そうとするが、足が動かない。先に進むことをティエルの全身が頑なに拒否しているようであった。
「大丈夫。大丈夫だから。わたしはまだ前に進める。みんなのところに帰るために、進まなくちゃいけないんだ」
呪文のように。気弱な自分に言い聞かせるように。ティエルは拳を強く握りしめながら、のろのろと歩み始めた。
あれほど強い意志で試練に臨んだはずなのに、心が挫けてしまいそうだった。まさかこんな形の試練だったなんて。
もう十分森を進み続けたじゃないか。それでも出口はまだなのか。顔を上げると、延々と暗い道のりが続いている。
次に何かがあれば、もう……前には進めなくなるような気がした。
だが試練の森は非情にもティエルが何よりも大切にしている仲間達の姿を借りて、彼女に最後の試練を突き付ける。
「ティエル」
背後から、聞き覚えのあるテノールが響く。抑揚がないのに甘さを帯びている声。
もしもこんな時でなければ、ずっとずっと聞きたかったはずの声なのに。今は何よりも聞きたくはない声であった。
暫くの間振り返るのを躊躇っていたティエルであったが、漸く覚悟を決めたのか不自然なほどゆっくりと振り返る。
大木に寄り掛かるようにして立っている青い髪をした美貌の青年。記憶している姿よりも若干幼いような気がする。
いや、彼は少年のようで青年のようであったではないか。表情があれば元々幼い顔立ちをしていたことを思い出す。
薔薇の吹雪が舞うメドフォードの渡り廊下で、あの夜最後に見た姿から彼は何一つ変わることはないのだ。永遠に。
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「ねえ、クウォーツ」
「……」
「もしもーし、聞いてますかー? 隣に座っているクウォーツさん。お返事してほしいなー」
「聞こえている」
「聞いているならちゃんと返事をしてくださーい」
「ああ」
これは……いつだったか。
何度目かの剣の稽古の日だった。早朝の五時に起きてきっちり二時間だけクウォーツから剣を教えてもらっていた。
稽古の後はいつもティエルは汗だくになって息を切らしているが、彼はどんな時でも涼しい顔で汗もかいていない。
宿の朝食時間は七時から。少しだけ早めに稽古を切り上げた二人は、誰もいない宿の前の広場で休憩を取っていた。
「この間わたしが十六歳の誕生日を迎えたとき、クウォーツは確か……誕生日を祝うってことを知らなかったよね」
「何もしなくとも歳は重ねる。当然のことをわざわざ祝うという理由が分からない」
「それはそうなんだけどさ。でもやっぱり、誕生日はお祝いしたいよ」
「何故」
「わたしにとって誕生日は……生まれてきてくれてありがとうって、大好きな人に言いたい特別な日なんだ」
「生まれてきてくれて、ありがとう?」
「そう! だからわたし、クウォーツの誕生日もちゃんとお祝いしたいの。ありがとうってきちんと言いたいの」
「……」
「記憶を取り戻したら誕生日も思い出すのかな。それまでは仮の誕生日を作っちゃってもいいよね。そうしよう!」
勢いあまってクウォーツの両手を握りしめたとき、彼は今までに見せたこともないような表情を浮かべていたのだ。
透き通った硝子の瞳をまん丸に見開き、まるで幼い子供が驚いたような顔だと思った。
生き人形だなんてとんでもない。普通の青年だ。クウォーツを人形と呼ぶ者達は、一体彼の何を見てきたのだろう。
初めて出会った頃は、恐らく十は年上なのかと思っていたが……案外そうでもないのかもしれない。
「あのさ。十二月二十四日とかどうかなー、仮の誕生日。クウォーツはいつがいい? あ、そうだ。何歳なの?」
「分からない」
「そっかぁ、記憶がないから年齢も分からないんだ。どうしようかな。わたしよりは絶対年上だと思うんだけど」
「だろうな」
「初めて出会ったとき、十歳くらい上かなって思ったから……二十五歳ってことにしよっか。あ、もっと下かな?」
「任せる」
「もっと真剣に考えてよー。本人が一番適当なんだから。まぁいっか。早くクウォーツの誕生日をお祝いしたいな」
残念ながら十二月まではまだまだ長い。
気が早くも既に誕生日の計画を始めているティエルの様子を眺めつつ、クウォーツは小首を傾げながら口を開いた。
「残念だが、私はもう歳を重ねることはない。ギョロイアが言っていた」
「あっ、授業で聞いたことがあるよ! 悪魔族は一番綺麗な姿で時を止め、その姿のまま生涯を閉じるんだって」
「お前が皴々の老婆になる頃には、私はかなりの年下になってしまうのか。面白いな」
「むむっ。女の子に向かって皴々とか言わないでよ。その時は思いっきり孫扱いして、頭撫でてあげるからね!?」
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「……クウォーツ」
結局その年に迎えた十二月二十四日に、誕生日を祝うことはなかった。彼がその前に姿を消してしまったのだから。
ティエルが呼びかけるとクウォーツは無表情のままこちらに歩み寄ってくる。分かっている、これは単なる幻だ。
彼がこの試練の森にいるはずなどない。それでも仄かに香る薔薇の匂い。この匂いは、決して幻などではなかった。
それはハイブルグ城の庭園で、メドフォード城の渡り廊下で。不意に振り返った彼の姿がティエルの脳裏に浮かぶ。
「私のことをずっと待ち続けてくれていたんだな。約束を守れなくて……悪かった」
「別にいいよ。そもそも待ち続けるなんて、わたしの性に合わなかった。自分から探しに行くのがわたしだから」
「それならもう安心してほしい。……私はもう、どこにも行かない。望まれる限り、いつまでもお前の側にいよう」
「……残念でした。クウォーツはそんなこと言わないんだよ。でも……そう心では分かっているのに嬉しいなあ」
「ティエル」
このクウォーツもまた、ティエルが望んでいる言葉を惜しみなく紡いでくれる。
だが目の前に立っている青年は共に歩んでいきたいと願ったクウォーツではない。森が作り上げた単なる幻である。
「私は確かに本物ではない。お前の記憶を基にして森が作り上げた存在だ。……だが、それの何が悪いんだ」
「え?」
「幻の存在でも別にいいじゃないか。現実の私とは違い、この私は決してお前を悲しませるようなことはしない」
「……」
「それでもお前は現実の私を選ぶのか? お前が望むなら、私は……」
「もうやめて。……これ以上クウォーツの声で、姿で、彼の意思を無視したことばかり言わないで」
触れようと手を伸ばしたクウォーツから、ティエルは思わず遠ざかった。……触れられたら後戻りはできなくなる。
唇を噛みしめて彼に背を向ける。先を急がなくては。早くこの試練の森を抜けて、本当のクウォーツを探すために。
ティエルにとって心地よい言葉ばかりを紡いでくれる仲間達。所詮は森が作り上げた幻の存在だ。本人ではない。
「どんなに甘い言葉よりも、辛い現実を選ぶのか。ティエル」
背後で小さく呟かれるクウォーツの声。
ティエルの記憶を基にして作られた幻なのだと彼は言っていたが、これほど瓜二つに作り上げることができるのか。
手を伸ばせば体温すら感じられるかもしれない。だが、決して触れてはならない存在であった。
「……もしもお前が今でも私を探し続けているのなら。私達が出会い、全てが始まった……あの場所へ向かうんだ」
「!」
「現実の私と早く会えるといいな。私はいつでもお前の幸せを願っているよ」
「クウォーツ、わたしは……!」
彼の呟きに思わず振り返ったティエルは手を伸ばすが、指先は既に誰もいない空間に虚しく伸ばされるだけだった。
分かってる。分かってるんだ。彼の姿が森が作り上げたただの幻だったなんて、最初から分かり切っているはずだ。
……それなのに、これほどまで胸が張り裂けそうに辛くなるなんて。これがティエルに対する試練なのだろうか。
足が動かなかった。地に根を張ったかのように、前に進むことができない。
この森を抜けることを身体が拒絶しているようだった。振り返って、元来た道を戻って、仲間の元へ駆け寄りたい。
たとえ彼らが……森が作り上げた偽りの仲間達であっても。ティエルにとっては何よりも大切な存在だった。
鉛のように重い足をゆっくりと前に進める。まだ、大丈夫のはず。歩けるから……進めるから、まだ大丈夫のはず。
何度も言い聞かせていなければ、きっと立ち止まってしまう。立ち止まってしまうと、二度と進むことはできない。
意思に反して重い足を半ば引き摺りながら歩き続けていたティエルの瞳に、漸く明るい光が映る。森の出口だった。
……彼女は全ての試練に打ち勝つことができたのだ。森が作り上げた誘惑に打ち勝つことができたのだ。
入口と同じように幾重にも垂れ下がった蔦をのろのろと潜り抜けると、目前に優しい光が溢れる森が広がっていた。
大きな岩に腰掛けているテユーラの姿も見える。ティエルの姿を目にすると彼はにこにこと笑顔で手を振ってくる。
「ティエルちゃん、途中ではぐれちゃったから心配しましたヨ。どうやら僕らは試練に合格したようで……アレ?」
「……」
「参ったなァ。なんて顔をしているんですか。折角試練に合格することができたのに、嬉しそうな顔しましょうヨ」
「わたしは大丈夫だもん。テユーラおにいさんこそ大丈夫なの? おにいさんも試練を受けて来たんでしょう」
幼い子供が精一杯涙を堪えているかのような表情。口を大きくへの字に曲げ、大きな茶色の瞳には涙を湛えている。
涙を手の甲で拭ったティエルは顔を上げてテユーラに笑いかける。少々ぎこちなかったが、きっと、まだ、大丈夫。
笑うことができるうちは、涙を流すことができるうちは……まだ大丈夫だ。
「これで本当に試練に合格することができたのかな。わたし、みんなのところに帰れるのかな」
「まだ気を抜くのは早いですヨ。僕らが今どこにいるのか把握しなくてはなりませんし、帰る手段も探さないとネ」
「そう、だね」
「……僕らは望んだ台詞ばかりを言ってくれる都合のいい幻よりも、厳しい現実を選んだのですから」
テユーラが静かに顔を向けた先には、この世の楽園なのかと錯覚してしまいそうな穏やかで明るい森が続いていた。
「道はきっと険しいでしょう。けれど君が選んだ現実が、とても辛い道のりだとしても……決して負けないように」
「分かってるよ、わたしは絶対に負けたりなんてしないから。……ところで、おにいさんはこれからどうするの?」
「ティエルちゃんと同じですヨ。まずは現在位置の把握と、帰る手段を探します。歩いて帰れる距離だといいなァ」
「それなら、暫くの間一緒に帰る方法を探そうよ。一人よりは二人の方が心強いと思うな」
「僕も同じことを考えていたんですヨ。こんな小さな女の子を見知らぬ地で放っておくわけにもいかないでしょ」
「だーかーらー。小さな女の子じゃないんだってば!」
テユーラは謎の多い青年だったが、子供を放っておけないという意外にも面倒見がいい一面があるのかもしれない。
他愛のない会話を続けながら、ティエル達は森を進み始める。まずはこの外壁楽園から抜け出すことが第一だ。
たとえ森を抜け出た先に厳しい現実が待っていたとしても、優しい幻よりも現実を選んだのはティエルなのだから。
「これから頑張りましょうネ。必ずお友達と再会できるとは限りませんし、一生会うことがないかもしれませんし」
「えっ、なんでそういうこと言うの!? もっと明るいことを考えようよ!」
「物事は常に最悪のケースを考えるのがお勧めですヨ。フフフ、とびっきりの楽しい旅になるといいですねェ」
「楽しい旅になるのはいいんだけど、それよりもわたしは一刻も早く帰りたいな。ジハードの状況が心配だし……」
ジハード達と再会するために。リアンの真意を知るために。この世界のどこかにいるクウォーツを探し出すために。
それまでは歩みを止めることは決してないだろう。たとえ、どんなことがあっても進み続けなければならない。
……楽園の出口は、もうすぐそこだった。
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