Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第7章 姫君は遥かなる大地を征く

第71話 朱き焔色に燃ゆる魔女




……焔の魔女。

気が付けば自分はそんな名で呼ばれるようになっていた。一体いつから呼ばれているのか……もう覚えてはいない。
本当の名前など、呼んでくれる者が存在しなければ全く意味のないものだった。
『リアン』という名前は年月と共に次第に忘れ去られていき、いつの日か身も心も完全に『焔の魔女』となるのだ。

そう、私は焔の魔女。皆が恐れるゾルディス王国に君臨する宰相。それ以上でも、きっとそれ以下の存在でもない。
私が心を許す存在があるとするならば、それはただ一人だけだ。強大な魔力を授けて下さった愛しいあのお方のみ。
悪しき者に力を奪われ、封印の鎖で苦しむアスモデウス様をお救いするためには、多くの犠牲と条件が必要だった。

アスモデウス様の復活の儀式は、限られた地形と魔力の流れに該当する場所でしかできない。
限られた地形と魔力の流れ。メドフォード城の至る場所にアスモデウス様の復活の儀式ために魔法陣を描いたのだ。
そして最後の仕上げは封印の鎖を打ち砕くための生贄が必要であった。それも、極上の生贄でなければならない。


そのためにリアンという健気で面倒見のいい仲間思いの女を演じ続けてきた。明るくお喋りで嫉妬深い愚かな女を。
ティエル達は呆れるほど純粋で、私を全く疑うことをしなかった。あまりにも旨くいきすぎて、滑稽だった毎日。
他人を疑うことをしないお人好しのティエルやサキョウは元より、あの疑心の塊であるジハードですら騙し通した。

唯一……何を考えているのか全く分からない人形のような青年さえ注意していれば、全てが計画通りに進んでいた。


だがメドフォードでの戦いで、ティエル達をアスモデウス様の生贄に捧げる儀式は失敗に終わってしまったのだ。
敗因は一体何だったのだろうか? 私の計画は完璧だったのに。一体何が計画を狂わせてしまったのだろう……。
あの方の理想は戦争のない世界。一つの強国が全てを支配し、皆が幸せに暮らすことができる国を作り上げること。

そして、その楽園のような唯一無二の王国に君臨する王に相応しいのは……アスモデウス様ただ一人だけであった。
ああ、なんて可哀想なアスモデウス様。悪しき者の手によって、封印の鎖を背負わされてしまった私の愛する人。
必ずこの私の手で、あなたをお救いします。


……アリエス博士からのゴールドマインに眠る遺跡発見の報せは、私にとってこの上ない朗報であった。

限られた地形と魔力の流れという二つの大きな条件に該当する数少ない場所だ。今度こそ、あのお方を救えるのだ。
アスモデウス様と共に歩んでいく道だけが私の前に続いている。他の道など存在しない。それがきっと、私の幸せ。
それが、きっと……私の、幸せ。そう信じていた、はずだった。







ゆらゆらとオレンジ色に部屋を染め上げる蝋燭。豪奢な化粧台の壁に掛けられた大きな鏡が一人の女を映している。
卵型の輪郭。ぱっちりとした赤い瞳を縁取る長いまつげ。自慢のウェーブである、豊かなハニーシアン色の長い髪。
悩ましい曲線を描いた肉体。男ならば誰もが手に入れたいと望むような魅力的な女だが、その表情はどこか暗い。

なんて顔をしているのかしら。そう、リアンは思った。
鏡に映る女は随分と強張った表情を浮かべているようだ。彼女は自嘲気味に心の中で呟いてから、微かに笑った。
今日はアスモデウスの封印の鎖が解かれた喜ばしい日。待ち望んでいた瞬間をこんな顔で迎えるわけにはいかない。


先刻アリエスがアスモデウスを連れてゾルディス城へと帰還したという報せが入った。
あれほど恋焦がれていた彼と会える。……恋焦がれていた? あの感情は、果たして本当にそうだったのだろうか。
恋だと思い込みたかっただけではないのか。目を閉じればアスモデウスではない青い髪の青年ばかりが浮かぶのだ。

胸が締め付けられるような感覚も、嫉妬で怒りに震えた感情も、全てアスモデウスに対しては抱くことがなかった。
あの青年の前だけでは、彼に触れただけで身体が熱くなるような一人の無垢な少女に成り果ててしまうのだ。
これ以上彼のことを考えるのはやめよう。この想いは捨て去ろうと、忘れなければならないと誓ったではないか。

今までずっとアスモデウスのために生きてきた。そしてこれからも、アスモデウスのために生きていくのだろう。
彼のためならば何を犠牲にしても厭わない。どれほど大切にしていたものだとしても、彼の前では全てが色褪せる。


その時。
鏡の中でぼんやりと青白い球体が浮かび上がり、深紅のヴェールで顔を隠した女の姿が映っていた。侍女である。
焔の魔女として気持ちを切り替えなければ。リアンとしての自分は捨て去り、この王国の宰相として生きなければ。

「焔の魔女様」
「なぁに?」
「アスモデウス公爵閣下が白百合の間でお待ちです」

「分かったわ。すぐに向かうとお伝えして」
「はい。……それと……その、アリエス博士が魔女様にお伝えしたいことがあると。如何いたしましょう」
「アリエス博士が?」

あの古狸が一体何の用だ。今はそんな時間など全くないと口に出そうとしたリアンだが、ふと気まぐれを起こす。
ゴールドマインで暗躍したのは間違いなくアリエスだ。アスモデウス復活の功績は称えてやろうと笑みを浮かべた。


「そうねぇ……私は今とても機嫌が良いわ。話くらいは聞いてあげてもいいかしらねぇ」

その言葉に侍女は深々と頭を垂れると鏡の中から姿を消した。次に映ったのは暗い表情を浮かべたアリエスだった。
顔を覆うヴェールを外していたリアンは鏡の前に薄いカーテンを引き、椅子にゆったりと腰掛ける。
こちら側からはアリエスの表情がよく見て取れるが、彼の方からリアンの姿は朧気なシルエットしか映らないのだ。


「ご機嫌麗しゅうございます、焔の魔女殿」
「博士、要件は手短に話してもらえるかしら。私の機嫌を窺うよりも、もっと別のことを伝えたいのでしょう?」
「ははは……さすが魔女殿。何でもお見通しってことですかい、それなら遠慮なく言わせてもらいますよ」
「なにかしら?」

「……オレは今回の件で、多くのゴールドマイン住人の命を奪いました。泣いて命乞いをする者も、女子供も全て」
「その命のお陰でアスモデウス様がめでたく復活されたのよぉ? これは必要な犠牲だったの」
「それについては今更何も言いませんよ、言い訳をするつもりもないですし。ですが、これだけは言わせて下さい」
「言ってみなさいな」

鏡に映るアリエスの表情に、普段のへらへらとした様子はない。
真剣な眼差しでヴェール越しで見つめてくる。青々とした若葉のような丸い瞳。その所為で彼はとても幼く見えた。


「リナを……いえ、リーナロッテを何故チェスケンド王国との激戦が続いているマストルス砦へ送ったのですか?」
「それが何か問題かしら。リナちゃんだけではないわ、カイオウも一緒よ」
「チェスケンド王国は強国。送ったアンデッド兵士達も全滅に近いと聞いています。あの国を落とすのは無理です。
 すぐに撤退すべきだった。……それなのに……何故この絶望的な状況で、リーナロッテ達を送ったのですか!?」

ゾルディス王国は現在、西の強国チェスケンドとの激しい戦争が続いている。
豊かな物資と穏やかで恵まれた気候。この国を手中に収めれば、更にゾルディス王国の地盤は強固になると言える。
だが歴代の国王の中で最も勇猛と称されるマストフの指揮の元、チェスケンド軍の反撃によって全滅に近い状況だ。

そんな絶望的な状況で、何よりも大切にしている姪を戦線に送られたのだ。まさに死にに行くようなものであった。


「まず一つ言っておくわ。あなたは大きな勘違いをしているわねぇ、アリエス博士」
「……え?」
「チェスケンド王国の戦線に志願したのは、他でもないあなたのリナちゃんなのよ? 決して私の命令ではないわ」
「リナが!? 何故、どうして、そんな危険な真似を……!」

「あなたがゴールドマインで行ったことを知ったのでしょうねぇ。少しでも伯父の力になろうとしたんじゃない?」
「チェスケンド王国と戦うことが、オレと一体何の関係があるっていうんだよ!?」
「関係があるに決まってるじゃない。我が国が劣勢になれば、あなたに数多くの汚れ仕事が回ってくるんですもの」
「……」

「ねぇ、アリエス博士。愛情というものはとても面倒ね。あなたが家族を守ろうとすれば、その結果は裏目に出る」
「そもそも全ての発端は誰だと思っているんだ! 焔の魔女、あんたがリナやモーリンを人質に取らなければ……」
「楽しいお喋りはお仕舞。ゴールドマインからアスモデウス様の案内、ご苦労様」


さっとアリエスの表情が変わり、怒りの感情を露わにする。
そんな歪んだ顔をしたアリエスの姿を満足そうに眺めてから鏡の通信を切り、リアンは静かに椅子から立ち上がる。
今はこんな下らない会話で時間を消費したくはなかった。一刻も早く愛しいアスモデウスの元へと向かいたいのだ。


向かうは白百合の間。涼しい装飾品の音を立てながら、リアンは幾重にも重ねられたヴェールを払って進み始める。
……その途中。威光を示すためだけの贅を尽くした豪奢な部屋の中で、たった一つだけ場にそぐわぬものがあった。
凝った細工のテーブルの上に、端の方が大きく欠けてしまった可愛らしい天使の硝子細工が乗っていたのだ。

ゆっくりと立ち止まり、リアンは硝子細工に手を伸ばす。
手の平にそっと乗せると彼女は目を細めながら見つめた。この欠けた硝子細工は……きっと世界に一つだけだろう。
きっと世界にただ一つだけの、クウォーツが初めてリアンに買ってくれたものだった。嬉しくないわけがなかった。

リアンは寂しげな笑みを浮かべ、硝子細工を手から離した。勢いよく落下して、木っ端微塵に砕け散る天使の細工。
砕け散った欠片の一つ一つが宝石のように輝きながら辺りへ弾け飛んでいく。所詮は、実るはずのない初恋だった。
いつまでも幸せな記憶に縋っていてはいけない。もう自分は、気持ちに区切りをつけて新たな道を進み始めたのだ。


……白百合の間。かつてアスモデウスが封印される前に、彼が自室として使用していた部屋だった。
あの頃のようにいつまでも変わらぬ穏やかな時をアスモデウスと過ごす日を夢見て、あの日のまま置いていたのだ。
白百合の装飾がされたノブを掴み、リアンは扉を開け放つ。

「……アスモデウス様……!」
「久しいな、焔の魔女よ」

五年前から何一つ変わっていない部屋の中で、同じく変わらぬ姿をした何よりも誰よりも愛しい恋人の姿があった。
緩やかにカールのかかった長い銀髪。口元には細いヒゲ。がっしりとした広い肩幅。悪魔族らしく端正な容貌。
どこか少年の面影を残していたあの青年とは何もかもが違っている。まさに色気が匂い立つような大人の男だった。

リアンを瞳に映したアスモデウスは優しい笑みを浮かべた。何もかも全てが五年前のまま。笑い方も、優しい声も。


「いや……会いたかったよ、余の可愛いリアン」
「私もですわ! 本当に本当に……お会いしたかった!」
「相変わらずお前は美しいな」

ぼろぼろと涙を溢れさせたリアンは両手を広げるアスモデウスの胸へと飛び込んだ。
力強い腕でしっかりと抱きしめられる。甘さのない咽るような強いコロンの香り。それですら愛おしく感じるのだ。
アスモデウスの腕に抱かれながら。ふと、甘い薔薇の香りを思い出す。喜怒哀楽の欠けた人形のような青年の姿を。

彼は華奢でこんな力強い腕ではなかったけれど、それでもリアンの身体を受け止めても決して揺らぎはしなかった。
そんな思い出など最早無意味であるのに。捨て去ったはずの記憶であるはずなのに、心の奥底がちくりと痛んだ。
想いを振り切るように目を閉じたリアンは、そのままアスモデウスと唇を重ねた。





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