Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第7章 姫君は遥かなる大地を征く
第74話 煌く琥珀の都市 -3-
「姫様、ティエル姫様! ……そんなに急いで、一体どちらへ行かれるのですか?」
メドフォード王国。温かな日差しが降り注ぐ中庭で、息を切らせながら走っていたティエルを不意に呼び止める声。
優しく彼女を気遣うような、それでいて力強く響く声だ。とても聞き慣れた青年の声に思わず足を止めて振り返る。
光に照らされてきらきらと輝く髪。国内一だと噂される爽やかな笑顔の持ち主がティエルの背後に立っていた。
眩いプラチナブロンドに青い瞳。程よく筋肉の付いた引き締まった長身。端正で華やかな容姿は人目を惹き付ける。
幼い少女達が愛読する絵本に登場する、まさに絵に描いたような『理想の王子様』といった風貌の青年であった。
百名を超えるファンクラブ会員が国内に存在し、侍女や町娘達に絶大な人気を誇っているアイドル的な存在だった。
彼の名前はガリオン。……精鋭揃いのメドフォード騎士団の中でもトップクラスの剣の腕を持つ、期待の成長株だ。
ティエルは毎日のように侍女達から彼の話を聞かされており、その度に軽く相槌を打つことしかできなかったのだ。
今日のガリオンの様子や、あんな一面があったこと、こんな会話ができてとても嬉しかったなど、そんな話である。
だが侍女達が何を言おうとも、ティエルはガリオンの魅力を十分理解しているつもりだ。今更何を言えばいいのか。
そのためにティエルは相槌を打つことしかできなかったのだ。
第一彼女にとっては騎士団の誰々が格好いいという話よりも、明日の三時のおやつのメニューの方が大事であった。
正直恋愛というものがよく分からない。いつかはしてみたいが、自分にはまだ早い話だとティエルは思っている。
そんなガリオンが驚いたような表情を浮かべつつティエルを見つめている。ああ、まずい時に見つかってしまった。
「確かこの時間は魔術基礎の授業のはずではないのですか? 先程、アン先生を廊下でお見掛けしましたが……」
「ガリオン、お前分からないのかよ。姫様はサボり……じゃなかった、自主的に授業をお休みされているんだ」
「……え? あぁー、そうなのか。分からなかった。サイヤー冴えてるな」
「お前が鈍いだけなの! 姫様、ご機嫌麗しゅうございます。どうぞお行き下さい。我々は見ていなかったことに」
ガリオンの隣に立っていたのは、彼と同じく騎士団の衣装を身に着けた青年だ。
茶色の癖毛が特徴的であり、生真面目な印象が強いガリオンとは対照的にどこか世渡り上手な雰囲気を持っている。
彼はサイヤーといい、ガリオンの幼馴染みだ。軽い発言が多いが剣の実力はガリオンを上回ると噂されているのだ。
こっそりと授業を抜け出したティエルを見なかった振りをしようというサイヤーの発言を聞いていたガリオンだが、
静かに首を振ると彼女の顔を覗き込む。真剣な青い瞳。真面目過ぎて堅苦しいとガリオンを評する者もいるだろう。
融通が利かない頑固な性格と言ってもいい。だが、彼はいつでも真剣だ。何よりもティエルを大切に思っている。
「ティエル姫様」
「なに?」
「魔術基礎の授業も、今は役に立たなくても……いつかきっと役に立つ時が来るはずですよ」
「わたしが魔力を全然持っていなくても?」
「はい。姫様の日々の授業に、無駄なことは一つも存在しないと思っています。様々な経験を積んでいきましょう」
「無駄なことは一つも存在しない……?」
ガリオンの言葉に、ティエルは思わずその大きな瞳を瞬いた。
自分の話を素直に聞いている彼女に対して、ガリオンは慈しむような笑顔を浮かべた。我が姫様はいつでも素直だ。
「そうですよ。さあ、今からでも教室に戻りましょう。アン先生も首を長くしながら姫様を待っておりますよ」
ガリオン=バロナッティ。
城下町にてパン屋を営む庶民でありながら、実力で正騎士の座を勝ち取った青年だった。
勿論親友のサイヤーも下町出身だ。由緒正しいメドフォード騎士団は裕福な家の者が多く、一般家庭出身は少ない。
初めの頃はそんな異色な二人に対して妬ましく思う者も存在していたが、二人の並々ならぬ努力の結果だと知り、
更に誰とでもすぐに打ち解けるサイヤーの性格もあって現在二人はメドフォード騎士団の中心的存在となっている。
彼ら二人との出会いは、ティエルが僅か五歳の頃であった。
当時の記憶は随分とあやふやになっているが、二人と出会った日のことは覚えている。とても天気のいい日だった。
その頃からティエルは己が全く魔力を持っておらず、父ブラムや祖母のような魔術師にはなれないと知っていた。
侍女の目をこっそりと掻い潜り、幼い彼女は中庭を一人で歩いていた。最近は中庭の探検が日課になっていたのだ。
部屋の中で人形遊びをするよりも外を駆け回る方が好きだった。棒で打ち合い剣士の真似事をするのが好きだった。
泥だらけになるまで庭を駆けずり回って遊ぶのが好きだった。その度にドレスを汚して侍女に叱られてしまったが。
今日はもう少し中庭の奥まで探検してみよう。新しい場所はわくわくする。
既に何度か転んでドレスが汚れてしまっている。探検に長いドレスは不向きであった。歩きにくい上によく転ぶ。
その時。てくてくと歩みを進めていたティエルの耳に入ったものは、激しく木刀を打ち合う音と勇ましい掛け声だ。
低く頑丈な木の柵に囲まれた大きな建物。この辺りは探検では来たことがなく、掛け声はその中から響いてきた。
中で一体何をしているんだろう。面白そうだ。興味が湧いてきたティエルは柵を乗り越えようと足を踏み出したが。
柵を乗り越える前に彼女の小さな身体は後ろから抱きかかえられ、ゆっくりと地に下ろされてしまったのだ。
「……こらっ、ここは騎士団詰所といって武器が置いてある危ない場所なんだ。子供が近付いちゃ駄目じゃないか」
明らかに年若い少年の声。
驚いてティエルが振り返ると小柄で端正な顔立ちの少年が立っていた。青い瞳にきらきらとしたプラチナブロンド。
絵本の挿絵で見た王子様のような外見の少年だと思った。もしかして彼はどこかの国の王子様なのかもしれない。
年下であるティエルの手前、少年にとっては精一杯背伸びをして冷静な大人の男を意識しているつもりなのだろう。
しかしくりっとした大きな瞳と小柄な体型、そしてどこか子供じみた彼の雰囲気が実際の幼さを物語っていた。
「あなたもこどもだよ? ちかづいたらだめなんだよ」
「オレはもう子供じゃないよ! た……確かに背はまだまだ低いかもしれないけど、こう見えても騎士団員なんだ」
「バーカ。レディの前で見栄張ってるんじゃねぇよ。オレ達まだ見習い騎士になったばかりだろ、チビのガリオン」
「!」
騎士団員と名乗りながら少々自慢げに胸を反らしていた少年の背後から、同じような年頃の少年が姿を現したのだ。
声を掛けたのは右手に雑巾を手にして、にやにやと軽い笑みを浮かべた茶色の癖毛の少年であった。
ガリオンと呼ばれた少年へ歩み寄った癖毛の少年は、突然彼の頭を鷲掴むと無理矢理ティエルに向けて下げさせた。
「いてっ、いきなり何すんだよサイヤー!?」
「何すんだよじゃねぇよ、この方を誰だと思っているんだ。我らがお守りする麗しの姫君、ティアイエル様だぞ?」
「はいぃ……?」
「はいぃじゃねぇっつの。全く、未来の騎士団員ともあろう者が、お仕えする我が姫様のお顔も知らないのかよ!」
「え、姫様ってこのちっちゃい子が!?」
「……ティアイエル姫様。数々の無礼、誠に申し訳ございません。このガリオンは決して悪いやつではないんです」
深々と頭を下げるサイヤーの様子を呆然と眺めていたガリオンの顔色が、状況を理解したのか段々と青ざめてくる。
お仕えするべき我が国の姫君になんという無礼な態度を取ってしまったのだ。最悪の場合……禁固刑もありえる。
漸く目の前に立っている幼い少女がティアイエル姫だと知ったガリオンは、随分と慌てた様子で何度も頭を下げた。
「も……申し訳ございません、ティアイエル姫様! あぁ……オレは何という無礼なことをしてしまったんだ……」
顔を青くさせたり赤くさせたりしているガリオンの様子が面白かったのか、ティエルは思わず笑いを噴き出した。
彼女につられてサイヤーまでもが笑い始める。二人の笑いの意味が分からずに、目を白黒とさせているガリオン。
それが、ガリオン達との出会いであった。
彼は自分にとって一体どんな存在だったのかをティエルは考える。サイヤーはとても大切な友達だと思っている。
ではガリオンも大切な友達なのだろう。ジハード達とは少し違う方向での大切な存在だ。
ガリオンのことは大好きだ。いなくなればとても寂しいし、もしも死んでしまうようなことがあれば泣くだろう。
だがこの感情は決して、侍女達が毎回騒ぎ立てていたような『恋』という感情ではなかった。家族愛に近かった。
好きだからといっても恋とは限らない。まだ恋をしたことがないティエルでも、それはなんとなく分かっている。
『恋』はもっと違う感情なのだと。
ガリオンがメドフォード王国を去ってしまった今となっては、こんなことに気付いても……最早意味はなかったが。
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目が覚めると既に朝になっていた。簡素な宿屋の一室。従業員専用として割り当てられた狭い二人部屋である。
光を遮るために大きな窓に掛けられたカーテン代わりの分厚い編み物の隙間から、薄っすらと陽が差し込んでいた。
テーブルを挟んだ隣のベッドでは、ティエルが目覚めたことを知ったテユーラが唇を尖らせながら彼女を振り返る。
「……ティエルちゃん、おはようございます。絶好の観光日和のいい朝ですネー」
「おはよう、テユーラおにいさん。……あれっ、ちょっと機嫌悪かったりする?」
「怒ってなんかいません。昨日ティエルちゃんが僕を町に置き去りにしたまま帰ったことなんて気にしてませんヨ」
「ごめんなさいってば。だって日も暮れてきたし、おにいさんも宿に戻っていると思ったんだもん」
「僕は大通りではぐれたティエルちゃんをずっと探していましたヨー」
「何度も謝ったじゃない! おにいさん、意外と根に持つタイプだよね」
「フフフ、酷い言い草ですネ。ですがそのとおりです」
昨日は琥珀の宮殿に向かう途中でテユーラとはぐれてしまったのだ。
その上ガリオンと思わしき人物を宮殿前で見掛けたため、ずっとガリオンの姿を求めて宮殿周囲を探し続けていた。
先に宿へと戻っていると思っていたテユーラは、はぐれたティエルのことを心配して大通りを探し続けていたのだ。
勿論昨日から謝り続けているが、テユーラはいじけたような態度である。これではどちらが子供なのか分からない。
「ティエルちゃんと琥珀の宮殿に行けることを楽しみにしていたんです。それなのに先に行っちゃって酷いですヨ」
「あっ、そうだ! 昨日は言い忘れていたんだけど、琥珀の宮殿で知り合いを見かけたような気がするんだ」
「知り合い?」
「うん。もしかしたら帰るための手段を知っているかもしれないし、わたし毎日休憩時間に宮殿へ行ってみるよ」
「こんな遥か遠い地で知り合いと出会うなんて凄い確率ですが……単なる他人の空似なのではないかと思いますヨ」
「あれは他人の空似なんかじゃなかった。きっとまた、彼が現れるような気がするんだ」
「ティエルちゃんが気が済むのであれば僕は止めませんヨ。では僕は町で情報収集を始めることにしましょうか」
その日から毎日ティエルは休み時間の度に琥珀の宮殿を訪れていた。
しかし彼女の願いも虚しくガリオンの姿はあれから目にすることもなく、遂には琥珀祭最終日を迎えることになる。
この日は一日休暇を貰っており、ティエルは勿論早朝から琥珀の宮殿の入口でガリオンの姿を探し続けていた。
ティエルの前を通り過ぎようとした何名かの観光客達が、彼女を目にして驚いたような表情を浮かべて去っていく。
恐らく朝から彼女を見かけた者達だろう。確かに同じ人物が一日中同じ場所に立っていては驚くのも無理はない。
そんな怪訝な眼差しを向けられても、ティエルは決して正面ゲートの前から動こうとはしなかった。
確かに数日前、琥珀の宮殿の正面ゲート前でガリオンの姿を目にしたのだ。あれは決して見間違いなどではない。
観光でこの地を訪れたとは考えにくい。ゾルディスの黒騎士として、何らかの目的を持ってこの地に来たのだろう。
だがあの日以来ガリオンは一向に姿を現さなかった。
果たしてあの人物は本当にガリオンだったのか。
メドフォード城が炎に包まれ、全てを失ってベムジンに辿り着いた時。サキョウとゴドーを見間違えた時のように。
弱った心は、自分の知らぬ間に会いたい人物の姿を他人に重ねてしまう。今から思えば全く似ても似つかないのに。
……あっ、あのひとかな。違った。今度はそうかな? ……やっぱり別人だった。
こんな一喜一憂を何度も繰り返していると、意識が徐々に朦朧としてくる。当然だ。朝から何も食べていないのだ。
少々ぼやけた視界に夕日に照らされて輝くプラチナブロンドが見える。いつの間にか夕方か。全く気付かなかった。
プラチナブロンドを見かけるのはこれで何度目だろう。今度もやはり人違いかとティエルはゆっくりと顔を上げる。
黒の衣装に白いマント。その金髪の男は間違いなくガリオンであった。琥珀の宮殿の廊下を一瞬だけ横切った人物。
「待って! ……待ってよ、ガリオン!!」
半ば叫び近い声。力の抜けた足を必死に奮い立たせ、ティエルは脇目も振らずに黄金の通路に向かって駆け出した。
息も荒く漸く先程の通路まで辿り着いた瞬間。地面に足を取られて転倒してしまう。
観光客達が一体何事かと驚いた表情で皆ティエルを眺めている。しかし誰一人として手を貸そうとする者はいない。
転んで擦り剥いてしまった腕と膝の痛みに耐えながらも周囲を見回すが、やはりそこにはガリオンの姿はなかった。
「待ってよ……待ってって言ったじゃない、ガリオン……」
既に起き上がる気力は残っておらず、ティエルは唇を噛みしめる。口の中はからからに乾いており、砂の味がする。
仲間達から引き離され、ひとりこんな遠い地で転んでいる。そんな自分の姿がとても惨めに思えてきた。
全ては勝手な行動の結果なのだ。サキョウの忠告どおり、あの時はリアンを追うべきではなかったのかもしれない。
誰を責めるわけにもいかない。全ては自分の責任なのだから。
視界が涙で滲んでいく。そんな中で、同じく滲んだ誰かの手が映った。……手だ。確かに手が差し伸べられている。
恐る恐る視線を上に向けると驚いた表情を浮かべている見知った青年の姿があった。夕日に輝くプラチナブロンド。
幻覚などではない。間違いなく、彼は目の前に立っている。
「……ティエル姫様、大丈夫ですか?」
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