Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第8章 ディア マイ フレンズ
第76話 戦いの爪痕 -1-
ゆっくりと目を開けると、薄暗い視界に朧気な影が映る。
意識がまだはっきりとはしていなかった。どうやら自分は、横になって寝ていることだけはなんとなく理解できる。
だが一体何故こんな所で寝ているのか。右手を動かそうとするも全く動かない。では左手はどうだ。……動かない。
記憶が混濁しているようだった。こんな状態になったのは遠い昔のような気もするが、つい最近のような気もする。
徐々に薄暗い視界が明るくなっていく。いくつも並べられた簡素なベッド。薬草や消毒液の匂いが充満している。
棚には様々な治療道具が並べられており、この場所が病室であることが理解できたが……何故病室にいるのだろう。
病室に寝かされているのだとしたら、自分は病気か怪我を負ったのだ。それならば身体が動かないのも納得できる。
先程のぼんやりとした人影に視線を戻した。唯一自由に動かせるのは視線だけであった。
短く刈り上げた黒い髪に大柄な体躯。そんな男が寄り添う形でベッドサイドの椅子に腰掛けたまま眠っていたのだ。
男の顔を見た瞬間。記憶の断片が集っていき彼は瞬時に理解した。自分の身に何が起こり、何故ここにいるのかを。
椅子に腰掛けたまま眠っている大男に怪我はない。少なくとも、目に見える場所には怪我を負っていないようだ。
安堵のために彼は大男に向かって手を伸ばそうとするも、やはり身体が動かない。悔しさに思わず唇を噛みしめる。
「……ジハードくん……?」
聞き覚えのある女の声が病室に響いた。ぱたぱたと忙しない足音を立てながら、もう一人近寄ってくるようだった。
寝癖をそのまま梳かさずにいるような、あちこち跳ねた桃色の長い髪。よかった。彼女も怪我がないように見える。
心配そうに覗き込んでくる女の表情は涙を浮かべながら歪んでいる。鼻を真っ赤にさせ、若干鼻水も垂れていた。
ああ、折角の可愛い顔が台無しじゃないか。そんな台詞を口に出そうとしたが、上手く声を発することができない。
「サキョウさん、サキョウさんってば。早く起きて下さい。ほら、ジハードくんが目を覚ましたんですよお……!」
「……ん? うむ」
「ちょっと寝惚けている場合ですか!? あたし、お医者様を呼びに行ってきますね!」
ヴィステージに勢いよく揺り動かされ、完全に熟睡していたと思われるサキョウは寝言のような声を発していたが。
医者を呼びに行くために彼女が扉に向かって慌しく走り始めると、サキョウは突然弾かれたように飛び起きたのだ。
目を開けてこちらを無言で見つめているジハードに顔を向け、恐る恐るといった様子でベッドまで歩み寄って行く。
「ジハード、ワシが分かるか?」
「……」
「無理に声を出さなくてもいい。医者の話では、気道を若干火傷していると言っていた。大丈夫。すぐによくなる」
声を上手く発することができないのは、やはり気道熱傷か。確かに炎に囲まれた場所に長時間いたような気がする。
両腕が動かないのは固定されているためだろう。脱臼なのか、それとも骨折なのか。全身に痛みが発していた。
身体が弱っている時に魔力を消費する行為は命を縮めることに等しい。だが、せめて喉の火傷だけでも治癒したい。
何も話すことができないこの状態では、状況を確認することもままならない。確認したいことは山のようにあった。
あれからリアンはどうなったのか。サキョウ達は彼女と出会ったのか。ナズナは、襲撃の被害は、どの程度なのか。
サキョウの様子を眺めると、心底安堵したような表情を浮かべている。目の下には彼らしくもなく濃い隈があった。
誰かの無事を祈り続ける毎日はとても不安だっただろう。それは、ジハード自身もよく知っている。
まずは彼らを安心させたい。そのためには一日でも早く回復しなければならない。やはり、治癒魔法に頼ろうか。
そこまで考えて、ジハードはふと眉を顰める。
普段ならば一番に飛び付いてくるはずのティエルの姿が見えない。まさか彼女も大怪我を負っているのではないか。
もしもリアンの姿をティエルが目にしてしまっていたならば、恐らくサキョウの制止も聞かずに追っていくだろう。
旅をしていた頃は、まるで妹のように可愛がっていたティエルをリアンが傷付けたとは考えたくはなかったが……。
ああ、もどかしい。声を発することが、動くことができないこの状況があまりにも歯痒いと思った。
治癒魔法さえ使えば、喉の火傷が治せるのに。魔力を発動させるための手が動かなければどうすることもできない。
そんなジハードの不安が瞳に表れていたのだろう。サキョウはどこか言いにくそうに視線を逸らしてから口を開く。
「なあジハードよ。色々と気掛かりなこともあると思うが、今は自分の身体を治すことだけを考えてほしいのだ」
「……」
「ワシはお前まで失ってしまったら、もう立ち直れなくなってしまう。お前の存在だけが……今のワシの希望だよ」
「?」
「どうか落ち着いて聞くんだ。……ティエルは、あの日から行方が知れぬ。フロアから忽然と姿を消してしまった」
「……!!」
「あいつは傷付いたお前やナズナの姿を目にして酷く動揺していた。だからこそ、リアンが許せなかったのだろう」
あの時。サキョウは一刻も早くジハードを医務室に連れて行かねばならなかった。
だがジハードをヴィステージに任せ、力ずくでもティエルを引き戻せばよかったと今では後悔ばかりが押し寄せる。
よくよく考えてみれば、ヴィステージがジハードを医務室まで運ぶのは不可能だ。ならば一体何が正解だったのか。
「お前を医務室まで運び、医者に大まかな事情を説明した後……ワシはすぐにフロア六十六へと引き返した。
勿論フロア中を探し回った。だがそこにはリアンの姿はおろか、ティエルの姿までもが消えてしまっていたのだ」
「……」
「すまぬ。ワシが不甲斐無いばかりにこんな事態になってしまった。お前達を必ず守ると……誓ったのになあ」
俯いてしまったサキョウの声が震えている。
あなたが責任を感じることはないのだと伝えたい。その手を握りしめたい。だが掠れた呼吸が口から漏れるだけだ。
今はティエルの無事を祈ることしかできない。姿を消したというのならば、恐らく転移魔法で飛ばされたのだろう。
転移魔法ならば世界のどこかにいるはずだ。生存の可能性は高い。リアンは直接手に掛けることを躊躇ったのだ。
……それは単なるジハードの願望だった。最悪なパターンは、ティエルをゾルディス王国に連れ去った場合である。
彼女に執着し続けているヴェリオルの存在を思い出す。彼のために、リアンがティエルを連れ去ったのだとしたら?
そこまでジハードが思案した時。扉が開き、慌てた様子でヴィステージと初老の男がこちらへ歩み寄ってきた。
「ほら、見て下さい先生。ジハードくんが目を覚ましたんです!」
「袖を引っ張るでない。驚いたな、急所は外れていたとはいえ……君は出血量が多かった。助かったのは奇跡だよ」
「止血が完璧だったんですよね!」
「だが傷口を焼くのはあまりにも乱暴な方法だ。助かったから良かったが、ショック死してしまう可能性もある」
止血? 傷口を焼いた? 一体何のことだろうか。医者の口から、ジハードの身に覚えのない単語が飛び出した。
数ヶ所の刺傷。その上気道熱傷、両腕の脱臼、頚椎捻挫に右足の骨折、なかなか強烈な病名のオンパレードである。
命が助かっただけでも幸運だった。そういえば、何故か昔から妙に運だけは良かったような気がする。
どうやら医者の話では一週間も目を覚まさなかったらしい。不覚だ。癒術師とあろう者が怪我を負って寝込むなど。
本来であれば癒す立場であるはずなのに、介抱される立場になってしまうなんて。
死んでもおかしな話ではない状態だったと言われ、あの時は周囲が見えていなかったのだと改めて思い知らされた。
考えが甘かったのだ。リアンならば、きっと本気でこちらを傷付けてくることはないのだろうと勝手に思っていた。
……色々と考えなくてはならないことが増えたが、今は怪我を治すことだけを優先しよう。全てはそれからだった。
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それから五日後。意識を取り戻してからのジハードの回復速度は目に見えて早かった。
勿論彼が治癒魔法を秘かに使用した理由もあるが、人間というものは寄り添ってくれる存在がいると心強くなる。
火傷を治し会話ができるようになって初めてこの病室がシルヴァラース古代図書館内の医務室であることを知った。
「どうやらリアンは真っ直ぐにフロア六十六に向かったようだな。運び込まれた怪我人はお前一人だけであった」
「怪我人、か」
「……」
「死亡した人数は?」
「それもまた、一人だ」
「……そう」
死亡した一人とはナズナで間違いないのだろうなと思った。理解してはいたがどうしても声に出すことが憚られた。
雨のように降り注いだ血や肉片が忘れられない。あの光景は悪夢だったのではないかとジハードは思いたかった。
口を閉ざしたサキョウ。明らかに表情が暗くなったジハードを気遣うように、ヴィステージが慰めの言葉を掛ける。
「あの時のジハードくんは精一杯やったのでしょう? ……確かにナズナさんの死はとても悲しい出来事ですが」
「精一杯だったかもしれないけど、今から考えればもっと上手いやりようがあったかもしれない」
「全てを背負い込んで自分を責めるのは君の悪い癖ですよ。辛くても前に進まなくては。ナズナさんだってきっと」
「……ヴィステージの言うとおり、お前は頑張った。戦いにくい相手を前にしてよく頑張ったと……ワシは思うよ」
「結果としては最悪な結末になってしまったけどね。頑張ったところで、結果が全てなのではないかな」
「ジハード」
重苦しい沈黙が医務室を包み込む。哀しげな笑顔を浮かべ、サキョウは俯いているジハードの頭を軽く撫でてやる。
今はジハードに対して何を言っても気休めにしかならないと悟ったのだ。
ナズナはジハードのことを好いていた。色恋事に鈍いサキョウですら気付くほど、誰の目から見ても明らかだった。
彼女は最期にジハードに助けを求めたのかもしれない。目の前にいながら、彼女を助けることができなかった。
心を許した仲間が、罪のないナズナをあれほど惨たらしく殺した場面を直視してしまった彼の衝撃は計り知れない。
炎の魔法の使い手であるリアンの襲撃を受けた割にはフロア六十六の焼失範囲はごく限られた場所に留まっていた。
もしも火災が広がれば被害は恐ろしいことになっていただろう。恐らくジハードが周囲に結界を張り巡らせたのだ。
戦いにくいリアンを相手にしつつナズナを守り、火災が広がらぬように戦い続けるのは相当の負担だったはずだ。
だからこそサキョウはこれ以上何も声を掛けることができなかった。ヴィステージも同じ気持ちなのだろう。
たとえ最悪な結果になったとしても、あの時のジハードは全力でナズナと図書館を守った。誰も彼を責められない。
その時。俯いていたジハードがゆっくりと顔を上げる。
「ナズナは……今どこに?」
「ああ、彼女は身寄りがなかったのでな。古代図書館の共同墓地に埋葬されている。葬式も既に終わっておるよ」
「……」
「ジハード?」
「サキョウ。頼みがあるんだ」
「うむ?」
「……ぼくを、ナズナの眠る場所へ連れて行ってくれ」
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