Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第9章 おかえり

第90話 ビザン邸・潜入大作戦 -3-




「……あれ、いつの間にかキッチンで寝ちゃったんだ。最近慣れない労働ばかりしているから少し疲れてるのかな」


ゆっくりと目を開けたティエルは寝惚けた顔付きのまま周囲を見回した。鍋や調理器具が美しく並べられている。
夕食後の片付けや明朝の仕込みもすっかり終わっており、コックどころか周囲にはメイドすらもいない。
どうやらキッチンの中央に位置するテーブルの拭き掃除をしていた途中で、突っ伏したまま眠ってしまったようだ。

頬がひりひりと痛む。恐らくテーブルの木目が跡になって残っているのだろう。
時計を見るとテユーラ達との約束の時間までもう少しだ。本来であればティエルは隣の休憩室で二人の侵入を待ち、
警備の少ないキッチンの勝手口から屋敷に侵入したテユーラ達と入れ替わりに、彼女は屋敷を抜け出す作戦だった。

だが、現在は状況が大きく変わっている。週に一度の『ビザンのお楽しみタイム』に彼女が選ばれてしまったのだ。
キッチンの隣の休憩室で二人を待つ予定が、ビザンの寝室で二人を待つ予定に変更となった。
勿論テユーラやファングはそれを知らないため、待ち合わせ場所の休憩室には手紙入りの彼女の私物を隠したのだ。

待ち合わせ場所にティエルの姿がなければ、二人は手掛かりが残されていないか休憩室を調べてくれるはずである。
ファングはそのまま突っ走っていきそうだが……テユーラならば大丈夫だ。彼は楽観的に見えて慎重な所があった。
その時。随分と慌てた様子でメイド長が姿を現した。


「ああもう、ティエルったら! こんな所にいたの!? そろそろビザン様の寝室に行くための準備をしなくちゃ」
「えっ。でも準備って何をするの? このまま行ったら駄目なのかな」
「駄目に決まってるじゃない。まずは香油入りのお風呂で念入りに身体を洗ってから、この服に着替えなさい」

「これ服じゃなくて下着なんだけど……。まさかこんな透け透けの下着だけで寝室に行くの? 嫌だなぁ」
「今更何を言っているのよ。いい? ビザン様の言うことには決して逆らっては駄目。それがこの町のルールなの」

メイド長が手にしていたものは、どう見ても色々と透けてしまうであろう短いベビードールと面積の狭いパンツだ。


「町のルールかぁ。民衆に理不尽なルールしか押し付けることのできない指導者は、本当に必要な存在なのかな」
「はぁ? 急に何を言い出すのよ、ティエル」
「なんでもないよ」

ティエルの呟きにメイド長は思わず眉を顰める。彼女の言葉は幼い少女が発したとは思えぬほど重い響きがあった。
それはメドフォード王女という立場のティエルだからこそ発した台詞であったが、勿論メイド長は知る由もない。
正直透けた下着を身に着けることに対しては抵抗がある。だが何があっても必ずメドフォードに帰ると決めたのだ。

こんな下着を身に着けることくらい、古代図書館でジハードが心と身体に負った傷に比べれば大したことではない。
相手がビザンであろうと添い寝くらい何度でもしてやろうではないか。本音を言うと……嫌悪感が凄まじかったが。


メイド長に連れられて浴室まで辿り着き、花弁の浮かんだ香油入りの風呂に浸かりながら念入りに身体を洗われた。
浴室に漂っている匂いはどこか人工的な匂いがした。あまり好きではない匂いだ。ビザンが好きな香りなのだろう。
風呂から上がった後も、同じ香りのする香水を身体中に吹きかけられる。
思わず咳き込むティエルだったが、メイド長は構うこともなく香水を吹き続けている。まるで拷問のようであった。

そして極め付けは先程の透け透けベビードールとパンツである。一体誰がデザインしたのか、センスの悪い装飾だ。
勿論ティエルはそんな下着を身に着けたことも目にしたことも初めてだった。
侍女達が下着の話で盛り上がっている場面に出くわしたこともあったが、皆ティエルの姿を目にすると口を閉ざす。

ガールズトークに興味があったティエルが話に入ろうとすると、侍女達は慌てたように頭を下げて去ってしまった。
一国の姫君相手に雑談など許されない。当然の態度だったが、それがティエルには少し寂しかったことを思い出す。
別に可愛い下着に興味があったわけではないが、女の子らしい話題にほんの少しだけ憧れがあったのかもしれない。


そんなことを考えながら着替えていたティエルが目の前の鏡を眺めると、悲しいほど幼児体型の少女が立っていた。
はっきり言って色気の欠片も感じられない。あまりにも色っぽい下着が似合わない。似合わな過ぎて泣けてくる。
隣に立っていたメイド長も同じことを考えていたようで、重苦しい溜息と共に首を振っていた。失礼な態度である。

「もう時間がないからこれでいいわ。むしろ色気を出さない方が好みだったりするのかも……。さぁ、行くわよ!」


ビザンの寝室までの長い廊下を歩きながら、ティエルは注意深く周囲の様子を観察していた。
ボディガードの姿は先程の廊下の角を曲がった場所から見掛けていない。噂どおり本当に人払いをしているようだ。
あと数分でテユーラとファングが屋敷内に侵入する時間であった。彼らは上手く忍び込むことができるのだろうか。

いくらキッチンの勝手口周辺は警備が薄いとはいっても、屋敷内にいる警備員に見付かったりはしないだろうか。
二人のことが心配のあまり、この先ビザンの寝室で自分に降りかかる出来事に彼女は危機感すら持っていなかった。
箱入りの姫君ゆえの無知である。しかし、大国の姫君がこんな状況に陥るなんて一体誰が想像するだろうか。

やがてピンクのライトに照らされた扉の前に辿り着く。
趣味の悪い置物がこちらを見つめており、ここがビザンの寝室で間違いないだろう。ごくりと固唾を飲み込んだ。


「あたしが案内できるのはここまでよ。また明日の朝に迎えに行くから、何があっても気をしっかり持ちなさい」
「うん、ありがとう」
「意外にあっけらかんとしているわねぇ……今までの女達は恐ろしさのあまり泣いたり震えていたりしていたのに」

「わたしは故郷に帰るためには、どんなことでもやってやるって決めたんだ。泣いている場合じゃないよ」
「へぇ、そんなものかしらね。まぁいいわ、さっさと行きなさい。ビザン様が中でお待ちよ」


……勿論この時点でもティエルはビザンと寝ることを『一晩ただの添い寝をするだけ』なのだと勘違いをしている。
そんなことに気付いていないメイド長は、早く中に入れと言わんばかりにティエルを見下ろしていた。
金色の鍍金で塗りたくられたノブに手を掛けると、扉は呆気ないほど簡単に開いた。中の様子は暗くて分からない。

メイド長に向けて小さく頭を下げたティエルは、恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。
扉を閉めた途端にメイド長の足音が遠ざかっていく。目が慣れてくると、周囲にぼんやりと桃色の光が灯っていた。
どうやらここは細い廊下になっており、突き当たりに分厚い緞帳が見える。用心深く彼女が中を覗き込んだ瞬間。


「待っていたよぉ、おいで可愛いマイハニー!」


下心を隠そうともしない濁声。
趣味の悪いキングサイズのベッドの上で、既に全裸のビザンが肥えた贅肉を揺らしながら両手を広げて待っていた。
だがティエルの視線は醜く肥えた腹の贅肉よりも、ビザンの下半身にぶら下がっている赤黒い物体に釘付けだった。
既に血管を浮き上がらせて隆起している。まるで別の生き物が下半身にそそり立ち己の存在を誇示しているようだ。

男性の下半身に『そのような物体』が付いていることくらいは、性知識が乏しいティエルでさえも一応知っている。
荒々しく隆起している『その物体』は想像していた以上に生々しく、そしてグロテスクな生き物に見えてしまった。
こんな大きな物体が股間にぶら下がっているなんて、男性は色々大変だな……などと、場違いなことを考えていた。


「ようこそ、ボクちゃんのスイートルームへ。歓迎するぞ、カワイコちゃん。うふふ……今夜は寝かさないからな」
「や……やだやだ、おじさんどうして裸なの!? パンツくらいちゃんと穿いてよ!」
「今からエッチするのにパンツなんか穿いてどうするんだ。あっ、もしかしてボクちゃんを脱がせたかったとか?」

「そんなわけないでしょ! お願いだから早く前を隠してってば!?」


思わず顔を引き攣らせたティエルは、ベッドの上でじりじりとにじり寄ってくるビザンから距離を取り始める。
ベッドサイドのテーブル上には銀色に輝くカードのようなものが見えた。もしやエルラカーヒラの通行証だろうか。
ファングやテユーラ達と合流するまで従う振りをしておいた方がいいのだろうが、本能的に身の危険を感じていた。

「その初々しい反応は、もしかしてマイハニーは処女なのかなぁ!? ほぅーら、これが男のオチンチンだよぉ!」
「げっ、それを揺らさないでったら!」
「ほーれ、ほーれほれ、よく見てごらん。こうなったら大サービスで、ぶるんぶるんと回転だってさせちゃうよぉ」


彼女に見せ付けるかのように、腰を振りながら性器を揺らして近付いていくビザン。傍から見ると凄まじい変態だ。
時間稼ぎもそろそろ限界であった。
下卑た笑みを浮かべつつ両手を広げて向かってくるビザンに、ベッドの端まで追い詰められたティエルは身構える。

「さぁ……まずはボクちゃんが脱がせてあげようか、マイスウィートハニー!!」

「そこまでだ、この変態ロリコン野郎が!!」
「ティエルちゃん無事ですか!?」

ビザンが飛び掛かってこようとした瞬間。寝室の扉が勢いよく蹴破られ、ファングとテユーラが姿を現したのだ。
そしてそのままファングは状況が把握できずに呆気に取られているビザンの頭上から魔法灯の看板を振り下ろした。
悲鳴を上げる間もなくベッドに倒れ込むビザン。すぐさまテユーラは腰を抜かしているティエルを己に抱き寄せる。


「可哀想に……本当に怖い思いをしたでしょう。もう大丈夫ですヨ。これだけ時間を稼いでくれれば十分ですから」
「た、助かったよお……」
「ったくよぉ、危ないことはするなって言っただろうが。とにかく話は後だ、さっさと通行証奪ってずらかるぞ!」

「それでは休憩室に隠されていたティエルちゃんの荷物を渡しておきましょうか。武器に衣服に全部入っています」
「ありがとうテユーラおにいさん。やっぱり隠していた荷物に気付いてくれたんだね」
「フフフ。待ち合わせの場所に君の姿がなければ、周辺から手掛かりを探すのは当然の行動ですヨ」

「さっすがおにいさん!」
「まぁ、ファングは何も調べずにそのまま突っ走って行こうとしていましたがね……」
「うるせぇな、オレは細かいことでいちいち立ち止まったりはしねぇんだよ。猪突猛進なんだってーの」


にこにこと笑顔を浮かべたテユーラは、ティエルに向けて鞄とイデアを差し出した。やはり抜け目のない青年だ。

そんな彼の背後で、怒りに燃えた形相でむくりと身を起こすビザンの姿があった。
拳を握りしめたビザンが背後から彼に殴り掛かろうとした瞬間。まるでそれを初めから察知していたかのように、
テユーラは素早く腰に下げていた短いステッキを手にすると、振り向くこともなくビザンの額に叩き付けたのだ。

今度こそ白目を剥いてひっくり返るビザン。
確かテユーラは外壁楽園にて『僕はお嬢さんを守れるほど強くはないんです』などと言っていなかっただろうか。
今の動きを見れば分かる。強くはないなんてとんでもない冗談だ。あのステッキは単なる飾りではなかったのだ。


「テユーラおにいさん、もしかして本当は強かったんじゃ……?」
「いえいえ、とんでもありませんヨ。このハルトゥハートは単なる肩叩き用のステッキですので」
「単なる肩叩き用のステッキの割には随分と大層な名前が付いてんな! って、そんな話よりも通行証はどこだ?」

「ベッドサイドのテーブルの上に、銀色のカードみたいなものがあったの。えーっと、これだよ」
「それがエルラカーヒラの通行証だ! 通行証さえ手に入ればここに用はねえ。行くぞ、逃げ道は確保してある!」
「フフフ……ティエルちゃん、早く行きましょー」
「あっ、二人とも待ってよ!?」

慌ててテーブル上の通行証を掴んだティエルは、気絶して床に転がるビザンを飛び越えてファング達の後を追った。





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