Lord of lords RAYJEND 第二幕「漆黒のクインテット」 第9章 おかえり

第96話 おかえり




「あ……あいたたた……」

ワープゲートの中心部に立ち、眩い光に包まれたティエルが思わず目を閉じた瞬間。
急に身体がふわりと浮遊した感覚があり、次の瞬間唐突に地面に投げ出される。思い切り尻を打ち付けてしまった。
この感触は柔らかな草の上に落下したようだ。石や煉瓦の上に落下するより幾分かはましだが、痛いものは痛い。

恐る恐る閉じていた瞳を開いてみると……想像していたとおり随分と間抜けな格好で彼女は茂みの中に倒れていた。
幸い尻を打ち付けた以外はどこも痛くない。感覚もある。ティエルは大きく息を吐いてから勢いよく立ち上がった。

まるで雨上がりの森の中に佇んでいるかのような、水分を多く含んだ土の湿った匂い。どこかひんやりとした空気。
先程まで乾燥した砂漠地帯で生活していた為だろう。久しく嗅いでいなかった懐かしさを感じる湿った匂いである。
深い茂みから抜け出ると、目の前には美しく整備された木々が立ち並んでいた。しんと静まり返り人の気配はない。


「ここはどこなんだろう……なんとなく見覚えがあるような気がするけど、こんなに暗くちゃよく分からないなぁ」


きょろきょろと周囲を見回しながら茂みに沿って歩いていると、月光に照らされた城壁が木々の間から姿を現した。
その城壁を目にしたティエルは、この場所が漸くメドフォード城なのだと確信を持ったのだ。
恐らく今彼女が立っている場所は城壁の中。メドフォード城東に位置する、歴史資料館近辺なのだと記憶している。

昼間ならばもう少し早く気付くことができただろう。だがこんな夜更けにこの場所を歩くのは当然ながら初めてだ。
慣れ親しんだ場所であっても、昼と夜とでは印象が大きく違う。彼女がなかなか気付かなかったのも無理はない。


「わたし、本当にメドフォードに帰ってこれたんだ……ほんとに、本当に帰ってきたんだ……!」


じわりと涙が滲んでくる。もう二度と帰れないのではないかと嘆いたこともあった。絶望しかけたこともあった。
それでも決して諦めずに歩き続けていて良かったと、ティエルは今心からそう感じたのだ。
歓喜のあまりに叫びそうになった口を慌てて押さえる。見回りの兵士に見付かればたちまち大騒ぎになってしまう。

大まかな経緯を説明するのも時間が惜しい。そんなことよりも一刻も早くジハード達の安否が知りたかったのだ。

メドフォード王国にいなければシルヴァラース古代図書館だろう。安静のために暫く滞在しているのかもしれない。
まず向かう先はトーマ大臣の元だ。彼ならばきっとジハード達の情報を知っているだろう。
既に大臣は就寝している時間帯だが、そこは許してほしい。そう勝手に結論を出したティエルは静かに歩き始める。

一国の王女。しかも己が住まう城である。
夜に忍び込む盗賊のように周囲を見回しながら歩く孫の姿を目にしたら、亡きミランダは一体何を思うのだろうか。


広大なメドフォード城にはティエルしか知らない秘密の抜け道がいくつか存在する。
まだミランダ女王やゴドーが健在だった頃は、よくその抜け道を使って城下町へ内緒で遊びに出掛けていたものだ。
現在ティエルが向かっている目的地もその抜け道の一つであった。誰かに見付かって修復されていなければいいが。

「こう暗くちゃよく分からないなぁ……確かこの辺にあったはず。これかな? あ、違った。やっぱりこの壁かな」


普段は学者以外はあまり人が立ち寄らないメドフォード歴史資料館。この時間帯ならば尚更人の気配はないだろう。
大きな窓はしっかりと施錠されており、決して開くことはない。だがティエルの狙いは窓の下の薄汚れた外壁だ。
月の光だけを頼りに手探りで壁に触れていると、がこん、という乾いた音と共に壁の一部が向こう側に倒れたのだ。

ティエル一人が漸く通り抜けることができる程度の小さな隙間であった。男は勿論、体格のいい女でも無理だろう。
この抜け道を使用したのは本当に久しぶりだ。よく誰にも気付かれずに今まで残っていたものだと感心してしまう。


両手を前に伸ばしつつ身体を隙間に潜り込ませる。以前より若干成長したためか、窮屈さを感じるが問題ではない。
埃がうっすらと積もった黴臭い書物が至る所に積み重なった歴史資料館。薄暗く、やはり誰の姿も見受けられない。
その時。不意に、幼い頃のティエルはこの歴史資料館をとても怖がっていた記憶を思い出した。

祖母に連れられて初めて訪れた資料館は埃っぽく、静かであった。高く積み上がった古い本がとても怖かったのだ。
年月が経ち……この歴史資料館は、今ではティエルにとって単に抜け道部屋という認識でしかなくなってしまった。
狭い抜け穴から這い出ることに成功した彼女は、元のように外壁を戻した。これからも大いに役立ってもらわねば。

服に付着した埃を叩き落とすが、砂漠の旅を続けていたために衣服は随分と砂まみれになってしまっているようだ。
この歴史資料館からトーマ大臣の部屋に向かうまでの間に自室の近くを通る。
正直着替える時間すらも惜しかったが、こんなぼろぼろの状態でトーマ大臣と顔を合わせたら一体何を言われるか。


「トーマ大臣のお小言はすごく長いからなぁ……ちょっと手間だけど、一度自分の部屋に戻ってから行こうかな」


大きな溜息をついたティエルは歴史資料館の出入口へと進み、そっと扉を開けた。
長い廊下はぼんやりとした明かりが灯っているだけで、見張りの兵士達の姿はなかった。丁度交代時間なのだろう。

人目を避けながら城の中を移動することに残念ながらすっかり慣れてしまっている。むしろ得意だと胸を張れる。
今日まで散々ゴドーや教師の目を盗んで授業を抜け出したり、町へ内緒で出かけて行った経験の賜物であった。
歴史資料館はメドフォード城東に位置しており、ティエルの自室は中央塔の五階である。

さすがに中央塔ともなれば見張りの兵士達の数が多くなってくる。廊下の暗闇に紛れ、彼らが通り過ぎるのを待つ。
今更姿を現すのも何故だか気が引ける。
そもそも姫君ともあろう者が深夜に城内へ忍び込んだ件についても、近衛兵達に見付かれば面倒くさいことになる。

漸く五階に辿り着く。この広い廊下を真っ直ぐに進んでいけば、やがてティエルの部屋が見えてくるだろう。
近衛兵達の目を掻い潜り、しんと静まり返った廊下を音もなく進んでいると……懐かしい自室の扉が見えてきた。


(……あれ?)


思わずティエルは首を傾げる。……薄暗い廊下で、誰かが彼女の部屋の前で座り込んでいたのだ。
相手は静かに歩み寄って行くティエルに気付くこともなく、ただぼんやりと膝を抱えたまま座り込んでいるだけだ。
彼を見間違えるはずがない。何度も夢にまで見た。現実に彼がここにいる。やっと……再会することができたのだ。


「……ジハード……?」


恐る恐る口に出したティエルの呟きに、座り込んでいた相手は顔を上げて振り返る。
絹のような白い髪。刺繡の美しい青の衣装。驚いたように大きく見開いた空色の瞳にはティエルの姿が映っていた。
シルヴァラース古代図書館で、血に塗れたナズナの首を抱いていたジハードの凄惨な姿が脳裏に浮かび上がる。

あの時ティエルは確かな恐怖を覚えた。ジハードを永遠に失ってしまうのではないかと、この上ない恐怖を覚えた。
普段ならばジハードが治癒魔法で皆の傷を治してくれていた。彼が何度もティエル達の命を救ってくれていたのだ。
……では、ジハードの命は誰が救ってくれるというのだろう……と。


「ティエル」
「ジハード……よかった、ほんとに無事でよかった……!」
「……無事でよかった?」
「あんなに酷い怪我を負っていたんだもん……わたし、ずっとずっと心配していたんだから!」
「そうだな。正直死にかけたよ」

涙を浮かべながらティエルが駆け寄っていくと、ジハードは笑いもせず怒りもしない表情で立ち上がる。無表情だ。


「事情はサキョウやヴィステージから全て聞いた。あなたはサキョウの制止を振り切ってリアンを追って行ったと」
「……」
「その行動が、どれほど周囲に心配と迷惑をかけたか分かっているのかい。彼女に殺される可能性も十分にあった」
「リアンが……そんなことをするはずがないよ」
「あの場のナズナやぼくの姿を目にしても、まだそう言えるのか? あなたは無謀にも一人で突っ走ったんだよ」


ジハードにしては珍しく、心の奥まで突き刺さるような鋭利で冷たさを帯びた声であった。
得意とする笑顔の仮面すら浮かべることができないほど怒っている。彼女に対して初めて向けるとても厳しい表情。
至る所に切り傷や青痣が残っている。当然だ。あの図書館での出来事から一ヶ月程度しか経っていないのだから。

「ごめんなさい……」
「……」
「……ほんとうに、ごめんなさい……っ」


己の取った行動で、どれほど周囲に心配と迷惑を掛けてしまったのか。それは痛いほど理解しているつもりだった。
唇を噛みしめたティエルの瞳から溢れ出した涙の粒が、頬を伝ってぼたぼたと零れ落ちる。

ジハードの厳しい表情は変わることはない。彼は一歩足を踏み出すと、泣いているティエルを強く抱きしめたのだ。
とても強い力だった。しかし、ジハードの身体は小さく震えていた。


「怪我は……してない?」
「してないもん。それを言うならジハードの方だよ」
「ぼくは大丈夫だ。病気はしなかった?」
「しなかったよ」

「……あなたは、すぐに拾い食いをして腹を壊してしまいそうだから」
「そんなことしないよ。……ジハードのばか」

「見知らぬ地に一人飛ばされて、本当に辛かっただろうに。ティエルは泣き虫だから、泣いてばかりいたんじゃ」
「飛ばされた先で力になってくれた人たちがいたの。ジハードのことも沢山その人たちに話したんだよ」
「ぼくのことを?」
「うん。いつか会ってみたいって、おにいさんやファングが言ってた」

「……ああ。うちのティエルがお世話になりましたって、その人達にお礼を言わなきゃな」


ティエルを抱きしめる腕を緩めぬまま、ジハードはいつものような優しく穏やかな口調で彼女とやり取りを続けた。
とても頼もしく大きな存在だと思っていた。いつも彼女が頼ってばかりだったジハードが、こんなにも震えている。
口調は普段と全く変わらないのに。それなのに、ティエルを抱きしめる腕だけが震えていたのだ。


「ジハード」
「……うん?」
「もう絶対に勝手なことはしないから。……ジハードを悲しませるようなことは、絶対にしないから」
「あなたは口ばっかりだ」

「ひどいよ。わたしは一度決めたことは必ずやり遂げるんだよ? だからこうしてメドフォードに帰ってきたのに」
「あはは、確かにそうだ」

その言葉を耳にすると漸く安心したのか、ジハードは抱きしめていた両手を緩めて彼女からゆっくりと身を離した。
それから厳しい表情をふっと和らげ、整った顔に少し困ったような笑顔を浮かべる。
これは偽りの笑顔の仮面を常に身に付けているジハードの本来の笑顔だ。ティエルは彼のこの笑顔が大好きだった。


「……おかえり、ティエル」





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